浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

覚悟を持って飛び込んだこの仕事

光明寺門徒 中島健太

 

 私は、現在、「アフラック保険」を扱う代理店にて仕事をしています。元々はダイエーというスーパーにて、牛乳やパンを扱う日配品担当の管理職を経験、そして最終的にはバイヤーという買い付けの仕事を任され12年間勤務してきました。忙しい日々を送っておりましたが、両親の高齢化にともなう介護やいろいろな都合があり、千葉より福岡市西区の実家に近い糸島へ戻ることを決意。人生半ばでの転職先が、全くの異業種だった保険業界になりました。

 周りの知人や家族からは、「保険業界は大変だ」「イメージが悪い」「子どもが3人いるのに大丈夫か」などと反対されましたが、保険業界は私が兼ねてから望んでいた「お客様を半永久的にサポートできる仕事」であると思い、そして「保険業界のイメージを変えたい」とざっくりとした覚悟とお節介過ぎる自分の性格を信じて飛び込みました。

 そして、現在は多くのお客様をお守りできております。光明寺ご住職様とは、この保険を通じて出会う事が出来ました。今では趣味の旧車で共通点があり、たいへん嬉しく思っております。また、ご住職様は私の義父にも似ており、とても他人とは思えないほどの親近感を感じています。

 保険は形が無く難しいものです。「生命保険には入っているよ」「がん保険に入っているよ」と、皆さん保険を持っていることは覚えていても内容まではなかなか覚えておらず、実際に使う時が来てしまった時に、ご家族にタンスや書類棚から保険証券を探してもらい、病院のベッドで証券を見て内容に愕然とされる・・こんな事が本当に多く起こっている現状です。

 そんな方を一人でも多く救いたい。「こんな良い商品がありますよ」「保険を見直しませんか」などと営業トークをするより前に、まずは、今加入している保険の内容を一緒に確認し、精査させて戴き、現状を知っていただくことが最優先であると私は考えてます。

 そして、長寿、高齢化と共に、三大疾病にともなう難病の増加、ガンの悪性転移など、それぞれの病気の深化に対応して生命保険、医療保険、ガン保険(先端高度医療)等も、内容の精度を時々刻々と詳細化し、多様化し、より幅広く充実させています。保険も、人生の節目節目での見直しが必要な時代になりました。

 これからもお客様とのご縁を大切にし、私と出会った方々には胸を張って保険を持って頂けるよう、そして保険のイメージが変わったと思って頂けるように日々精進し続けたいと思います。 合掌

死刑のハンコ

 国家が人の命を奪う死刑執行に間違いは許されない。死刑制度の肯定派もそうでない人も異論はないだろう。だが、一九八〇年代に相次いだ免田事件や財田川事件など「死刑再審四事件」では、確定死刑囚が間一髪で絞首台から生還した。人間は時に間違いを犯す。この決定に間違いはないのか。死刑執行の最終決済文書にハンコを押す法務大臣には身を切るような覚悟が必要だ。

 その死刑をめぐる発言で葉梨康弘氏が法務大臣を更迭された。同僚議員のパーティで飛び出した葉梨氏の軽口からはハンコを押す重責はみじんも感じられなかった。「法務大臣は朝、死刑のハンコを押し、昼のニュースでトップになるのはそういう時だけという地味な役職」。そう発言したのは一一月九日夜だった。会場から笑い声が漏れたとも伝えられ、自虐ネタのつもりだったのかもしれない。

 岸田文雄首相はとりあえず厳重注意しただけで野党や世論の反応を見極めようとした。結局、二日後に更迭することになったが、私が注目したのはその間、辞任を否定した葉梨氏の発言だった。「死刑執行を話題にすることで制度の是非を含む議論のきっかけにしたかった」。誰もが後付けの言い訳と受け止めたが、本音だったのであれば法相の職にとどまり議論を呼びかけるべきだった。またも死刑制度の是非に踏み込むきっかけを失ってしまったことが残念でならない。

 「人の生命を国が奪う。そんな制度を国が持つ不合理、不条理に対して深い考えをめぐらせず、死刑を笑いをとるための世間話にしてしまった」。民主党政権で法相を務めた千葉景子弁護士は、葉梨氏の更迭を受けてこう語った。 千葉氏が法相に就任した二〇〇九年、裁判員裁判が始まり、一般市民も死刑判断に関わることになった。千葉氏は一貫して死刑廃止の立場だったが、在任中に二人の執行命令書に署名し、初めて大臣自ら執行に立ち会うという異例の姿勢を見せた。さらには東京拘置所の刑場を報道機関に公開した。死刑制度の是非をめぐる国民的議論を喚起するのが目的だったという。

 だが、民主党政権が短命に終わったこともあり議論は全く深まらなかった。葉梨氏の言う「死刑のハンコ」に至る法務省内の流れは今も一切公表されていない。裁判員制度の下、私たち一般市民も死刑判決に関わり、厳しい選択を迫られる可能性がある状況も変わらない。世界的にも死刑廃止が潮流であるにもかかわらず、議論しようともしないのはなぜなのか。

 一九九二年に福岡県飯塚市で女児二人が殺害された「飯塚事件」を今も追いかけている。久間三千年元死刑囚は、死刑判決が確定した二〇〇六年からわずか二年で執行された。法務省によると、刑確定から執行までの平均は五年二カ月。早過ぎる執行を弁護団は「再審つぶし」と今も疑問視する。死刑確定から執行までなぜ二年だったのか。法相を更迭して終わりでは死刑制度の闇は晴れない。

貧困と孤立の果ての凶行

安倍晋三前首相(六七)が凶弾に倒れた。凶行の瞬間を撮影したニュース映像を初めて見たときに沸き上がったのは「何かが違う」という違和感だった。
 

何が違うのか。この違和感は何なのか。二度、三度と映像を見返すうちに違和感の正体を理解した。現場で警察官に取り押さえられた山上徹也容疑者(四一)があまりにも静かなのだ。警察官に押し倒された後、抵抗する素振りはほとんど見せず、暴れることもなかった。終始無言だったという。連行される後ろ姿は、まるで抜け殻のようにも見えた、だが、そこに漂っていたものは決して無力感ではない。敗北感とも違う。むしろ孤立と貧困、怨嗟の末に行き着いた計画を遂行し、社会への復讐を果たした達成感だったのではないかとさえ思っている。
 

山上容疑者は就職氷河期世代の一九八〇年生まれ。京大卒の父親が自殺したのは四歳の時だった。母親が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に入信し、一億円以上を献金して破産。自宅も失った。進学校の高校に進んだが、経済的な理由で大学進学を断念。海上自衛隊に入隊していた一七年前には自殺未遂を起こした。七年前には兄を自死で失った。その後は派遣社員として働き、職を転々とした。
 

山上容疑者のツイッターには「負け組」になった絶望が吐露されていた。「私を弱者に追いやり、その上前で今もふんぞり返る奴がいる。私が神の前に立つなら、なおの事そいつを生かしてはおけない」。非正規雇用にあえぎ、友人や家族、共同体などとの結び付きもないまま孤立。自身を絶望の淵に追い込んだ日本社会への復讐を誓い、その矛先を旧統一教会に定め、自らが「神」となって旧統一教会と関係があった安倍元首相襲撃を計画したのか。自分自身の存在意義をかけた、半ば自殺的な殺人だったとすれば、逮捕後の背中に漂った抜け殻のような脱力感が、やるべきことを完全に遂行した達成感だったとしても不思議ではない。そこから先の人生設計は何もなかったのだ。
 

ツイッターをはじめとするSNS(交流サイト)は今、分断と憎悪と怨嗟に満ち、いつ火がついてもおかしくない状況にある。貧困や孤立などの絶望的な状況に追い詰められ、自己責任と責められ、ぎりぎりの精神状態の人は山上容疑者以外にも大勢いるだろう。事実、二〇〇八年に起きた秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大元死刑囚も、三年前に京都アニメーション放火殺人事件を起こした青葉真司被告も、その後電車内で相次いだ無差別殺傷事件の犯人も、貧困と孤立の果ての凶行だった。
 

社会への復讐としての、半ば自殺的な殺人はこの先も減ることはないだろう。安倍元首相のような要人や政治家が再び犠牲になる可能性もあるだろう。自己責任をうたい、格差を拡大し、社会的な結びつきを破壊する新自由主義の在り方はこのままでいいのか。要人警護の強化を指示するだけでは何も変わらない。

SUBARU便り(5)

スバルに入社してから6年が経過し、仕事にもある程度慣れてきました。

 

当初は、6年もすると中堅のポジションになるイメージでしたが、実際のところまだまだです(業種によるかもしれません)。
未だに知れば知るほど知らないことが増えると言いますか、そんな感じです。技術者の奥の深さは、全く途方もありません。
新人の頃、当時の課長に、5年目までは会社にとってマイナスだと言われたことを思い出し、ここ2年くらいで実感しているところです。
今は5年を通り越してもう1年経ってはいるものの、会社にとってプラスになれているか自信はありません。

 

そういえば今年初めに、私が開発に携わったWRXがリリースされました(未だ街中で見たことが無いので本当に発売したか疑っています)。
そのハイパワーグレード(STI)に買い替えようと狙っていたのですが、発売されないことになり、衝撃を受けました。
理由は、近年規制が強まる排ガス規定と言われていますが、僕も詳しくは知りません。ターゲットが限定的なので、単に採算の問題かもしれません(笑)。
現在は15年前のレガシィという車に乗っています。いつかのスバル便りで書いた、工場実習(新人の通過儀礼)の給料で買った車です。
もうしばらくはレガシィに乗り続けることを決め、古い部品の交換・整備を始めました。時代は電気自動車なのに逆行しているなあと思いつつ。。。

 

今後は電気自動車(EV)、ハイブリッド車(HEV)あたりが主流になっていくと思います。スバルだけでなく世界的な動きです。
つい昨日、中国のBYDというメーカーが、EVで日本市場に参戦するニュースも目にしました。
スバルも2050年までにCO2を90%削減、中間のマイルストーンとして2030年時点でEVとHEVを40%以上にすると明言しています。
会社の中でも、世界の流れや掲げた目標に向かって大きく舵を取っている瞬間を肌で感じ取っています。
ちなみに、「世界的な流れ」を具体的に言うと、欧州です。
欧州は車業界におけるファッションリーダー的なところもあるので、欧州の流れが日本にも波及してくるイメージです。
車のデザインとかでも、近い将来の展望を見たければ、欧州車を見れば少しヒントが探れたりします。

 

話が逸れましたが、EV、HEVはあくまで主流なので、いきなり変わるわけではなく、ガソリン車もある程度残ると思います。
最近ガソリン価格も高騰してはいますが、燃費も向上しているので、個人の計画次第では、まだ購入時の選択肢にも十分入ります。
EVが秘めるポテンシャルは高いですが、車両価格もまだまだ高いし、充電スポットの配備も過渡期です。
メディアでもよく議論されていますが、この点が、比較的大きい課題ですね。
今は技術革新が目覚ましく、数年先を予想するのも困難ですが、EVは確実に、僕らのライフスタイルの変化に影響してきます。
将来ごととして考えれば、EVの動向からも目が離せないですね。

 

今回はこの辺で失礼します。今年も暑い夏がやってきました。
新型コロナも心配ですが、熱中症等、お身体に気をつけてお過ごしください。

 

顕信

お念仏に生きる喜びを次世代へつなぐ

門徒代表者協議会新代表 光明寺門徒 高橋彦太郎

 私は昭和50年に生まれ、久留米の諏訪野町にあった家で、父母、3人の姉と育ちました。親族も近くに住んでおり、お盆、法事となるとの親族の皆で集まり、お仏壇の前に正座して前住職の読経のお声をきかせていただいていました。合唱の指導もされていた前住職様のお声は、仏間の障子紙が震えるほどの声量で、今でもその雰囲気、迫力を覚えています。小学生の私は、お経の意味はわからずとも、幼いながらに仏法のあたたかさ、力強さを感じ取っていました。

 小学校卒業後、長崎の中学校に進学することとなり、親元を離れ寮での生活を始めました。それまでと一変した寮生活の中で、親の有難さを痛感した矢先、母がガンを患っていることがわかり、中学2年の冬には亡くなってしまいます。元気だった母がなぜ苦しみ亡くなってしまうのかという無力感、心に穴が開くような寂しさを感じ、悲しみを癒すためか哲学的な本を読むようなときもありました。同時に、父の悲しみも、私から見てとても大きく感じ辛い思いをしました。

 母が亡くなってから、父は仏教書を読むようになったように思います。父は、法事の場以外でも、死について考えること、手を合わせることの大切さを私に話すようになりました。今になって振り返りますと、この頃父から受けた影響が、仏さまとのご縁となったように思います。父は「白骨の御文章」を大事に思っており、ことあるごと「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身」なのだからと言っておりました。

 そんな父が、私が大学を卒業する年に倒れ、2年療養しましたが亡くなりました。倒れてからコミュニケーションは殆どできない状態でしたので、病床から家族、親族の様子をみてどれほど苦しんだかと思うと今でも辛い思いです。24歳にして両親が亡くなり、悲しむ間もなく、社会人として仕事を始め、親族兄弟に助けられながら家業を継ぐべく奮闘してきました。

 父母の葬儀をきっかけに、光明寺様が久留米で唯一の本願寺派の寺院であり、福井県鯖江市にルーツをもつ祖父が戦後に久留米で事業再興を図った際、鯖江と同じ本願寺派の光明寺様を頼ったことを知ることとなりました。戦後の激動の時代の中、祖父にとっては久留米という新しい土地で光明寺様の存在が心の支えだったことと思います。24歳で両親を亡くし、右も左もわからない私にとっても、時々の法事やお寺の場が心の支えとなってきました。

 現住職様から新本堂建立計画を伺った際は、開基以来の大事業に取り組まれる熱意に私自身が励まされました。平成三十年の完成の際には、前門主様をお迎えして落成慶讃法要をお勤めされ、現住職様、門信徒の皆さまとともにお祝いできましたことは、この上ない喜びで、誇らしいことでした。

 祖父の時代からの光明寺様、前住職様とのご縁が、幼いころから聞いていた読経の声を通して、現住職様、門信徒の皆さまへとつながり、私一人ではない、心のよりどころ、仏縁として生きる支えをいただいています

 この度、柳川組の門信徒代表という大役を引き受けさせていただきますこと、門徒としても甚だ不勉強、未熟ではありますが、このような有難い仏縁をいただいた者として、お念仏に生きる喜びをより広く、次の世代へつないでいくことを皆さまとご一緒に考えていきたいという思いでおります。合掌

台湾有事はあるのか

 二〇〇五年から三年間、西日本新聞の北京特派員として中国を取材した。以来、中国研究の王道を歩む友人たちとの交流を軸に、中国ウォッチャーの一人として細々とだが情報収集を続けている。そんな経歴もあってか、ロシアによるウクライナ侵攻の後、友人知人からの質問が一気に増えた。「中国による台湾侵攻はあるのか」。台湾有事への懸念が確実に高まっていることを肌で実感している。

 六月二三日、日米首脳会談後の記者会見でバイデン米大統領の発言が驚きをもって受け止められたのは、そんな時代背景があるからだ。台湾有事の際、米国は軍事介入するのか。そう問われた大統領は、即座に「イエス」と回答した。歴代の大統領はこれまで、イエスともノーとも明言しない、いわば「あいまい戦略」を取ってきており、武力関与を認めたのは初めてだった。当然、中国は猛反発し、ホワイトハウス高官は「台湾政策に変更はない」と火消しに躍起になった。「イエス」発言が計画的な失言だったのかどうか、その真意は不明だが、中台の緊張関係がさらに一つ上のステージに上がったのは間違いないだろう。

 中国は「台湾は中国の一部」であるとする「一つの中国」原則の貫徹を国家的使命としている。そして平和的統一を目指すとしながらも軍事的統一の可能性を否定していない。習近平国家主席の「中国の夢」は、建国百周年に当たる二〇四九年までに米国と肩を並べる大国に発展させることであり、台湾を含む領土の統一も不可欠としている。 つまり台湾統一は「するか、しないか」ではなく、二〇四九年までに「いつ統一するか」という問題としているわけだ。

 ならば中国が台湾統一のために軍事侵攻する可能性はあるのか。現時点で、その可能性は極めて低い。中国の最大の夢は米国と肩を並べる経済大国になることであり、国民も豊かさを求めている。武力侵攻により世界の市場を失い、民主主義諸国と切り離されれば経済のさらなる発展がないのは明白であり、ウクライナ侵攻後もロシア支援の方針を打ち出していないのはそのためだ。

 中国は今、台湾統一に向けて何をしているのか。最も力を入れているのは台湾を孤立化させる戦略である。台湾は現在、世界の一四か国と国交を樹立している。大半は小さな国だが、台湾を国家として認め、中国が世界にアピールしている「一つの中国」を認めていない国々である。逆に台湾と国交を結ぶ国がゼロになれば、台湾は国際社会で国家とは見なされなくなる。そこに中国の狙いがある。この六年間で台湾と断交し、中国と国交を結んだ国は八か国に上っており、台湾を国際社会から排除し、経済的に絞り上げる戦略は着実に成果を上げている。

 中国は今後も武力侵攻を脅しに使いながら、真綿で首を絞めるように外交によって台湾を追い込んでいくだろう。そこに米国がどう絡むのか。バイデン大統領の「イエス」発言も明らかに外交上の脅しであり、「攻撃」をちらつかせながらの「口撃」がより激化するのは必至だ。(了)

浄土真宗と現代(6)

光明寺住職 傍示裕昭

 『自分で何とかしようというのではなくて、はからずも私の口から阿弥陀様のおこころが言葉となって出てくる、ありがたくそれを自分でも聞くと。その前段階として、他のご家族や周りの方々のお念仏が耳から入っていたのではないかと。入ってきたお念仏が、今度は私の口から出ていく、そんな感じをいたしております。

 私は歳をとりまして、夜中に目が覚めてなかなか寝付けないときがあります。そんな時に、南無阿弥陀仏と申しまして、睡眠薬代わりになったと思いますが、そういう意味ではほとんど役にたちません。

 そのために称えるお念仏ではありませんので、思いをあらためまして逆に、お念仏する時間をあたえられたんだなと。

 起きていますと、あれこれ目に入ったり、耳に入ったりして、お念仏が出にくいんですけれども、夜中に真っ暗な中でいると、お念仏する何の妨げもない。これは良い機会をいただいたと思って、お念仏をそういう風に味わえば聖道門のお念仏とか、自力のお念仏とか、そういう問題にならない。

 「ありがたく申すだけ聞く」と、そんなことの感想を申させていただいて挨拶といたします。ありがとうございます。』

 前門様が、発言なさっておられたこの時は、本堂内が水を打ったようにシーンと静まりかえり、皆が、前門様の一言一言を耳を澄ませて聞き入っていて、心の琴線に触れるような、言葉では言い表せない深い感動を覚えたのを、今でも鮮明に覚えています。

 この思いがけないお言葉以来、私も夜中に目が覚めて寝付けない時に、

 「前門様も、ひょっとして今の時間に、お念仏をお称えされておられるかもしれない」と思うと、不思議な「安らぎの御心」をいただく気持ちです。本当に有り難いご縁でした。

 私たちが手を合わせ、お称えする南無阿弥陀仏を、「お名号」といいます。お名号とは阿弥陀如来さまの「救いの力」であり、如来様が現に今ここに、はたらき(用)続けてくださっている「われにまかせよ、必ず救う」という「名告り」です。ひとたびお念仏申す時、その名告りを味わうことによって、お育てに出遇っているのです。

 

「彌陀の本願信ずべし

本願信ずるひとはみな

摂取不捨の利益にて

無上覚をばさとるなり」

(親鸞聖人85歳 夢告讃)   (正像末浄土和讃)

 

 浄土真宗のご利益は、「摂取不捨」です。

摂取不捨には、ご左訓(ご註釈)が付けられてあり、

 「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追わえとるなり。

摂はをさめとる。取は迎えとる」の、(用)はたらきと、親鸞聖人は理解されて、

(一)私を救いとると誓われた阿弥陀さま

(二)称えるお念仏に育てられる人生行路

と、阿弥陀さまからの「お念仏の一本道」を、【人生の路標】といただかれて、ただひたすらに浄土往生への思いを馳せて生きぬかれた90年のご生涯でした。

合掌

アロハ! ハワイ開教区ワイパフ本願寺曽我久彌香

 

 福岡教区柳川組の皆さま、初めまして。皆様はハワイの本願寺を訪ねられたことがありますか?

 私の主人は、ハワイ開教区のオアフ島にあるワイパフ本願寺の駐在開教使です。開教使とは御門主から任命されて海外開教区で働く僧侶のことです。時々、あなたのご主人は住職さんですか? と、聞かれる方がありますが、正式には違います。ですから、私も坊守にはなりません。開教使夫人というのが正式なタイトルになりますが、通称として日本語では坊守という言葉を使っています。普段は、奥さん、と開教使夫人を尊敬して呼んでくださっています。今までの先生や奥様が尽力してくださったおかげです。

 さて、今回は私が、三十七年滞在しているハワイのお寺の活動を紹介します。残念ながら、世界的なコロナ禍で私たちのハワイ教団やお寺も二年以上活動が規制を受けました。最初の半年は、私たちのお寺の行事は、お盆法要や盆ダンス、バザーの中止、また毎週日曜日の日曜礼拝も取りやめ、しばらくはパソコンでズームで礼拝が配信されました。家族で初めて居間でパソコンの画面を見ながらのお参りは不思議な出来事であり、昔、本願寺新報で『リビング法話』を読んだ時に、法話はお寺の本堂の中だけでなく、普段の生活の場で聴聞ができるのだと再認識したことを思い出しました。素晴らしい先生方の動画法話をハワイにいながら聴聞できるのです。そのことに気づかされたコロナ禍だったかもしれません。ありがたいことです。

 さて、この原稿を五月半ばに書いています。嬉しいことにコロナ禍の規制も緩和され、コロナ禍と共存しながらお寺の行事を開催することが容易にできるようになりました。日曜礼拝も、入り口で検温、消毒、参拝名簿に記入の後、マスクをつけながらですが、距離をとって約1時間のサービス、そして茶話会をおこなっています。参拝されるみなさんの笑顔を見るのが私の一番の楽しみです。また、六月四日には、オハナ・ディ(ハワイ語で家族や友人の日)を、ミニバザーと一緒に境内で執り行う予定です。(言い出しっぺの私がコーディネーターです。笑)  ハンディキャップの子供たちの音楽グループやお寺のカラオケグループとコラボして、普段は仏教に縁のない方々が来てくださることを願って、子供達の為にゲームを考えたり、焼きそばやスパムムスビ、稲荷寿司、手作りのクッキーやケーキ等をメンバーさんと一緒に作って売ります。もちろん、シェイブアイス(かき氷)もありますよ。コロナ禍で静かになってしまった境内が賑やかな歓声がわく一日になれば嬉しいです。

 また、七月九日は、二年ぶりに盆法要と盆踊りを開催することに決まりました。ハワイの盆踊りは、とても賑やかです。もちろん、盆法要も大切ですが、盆踊りは、「ボン・ダンス」と呼ばれ、日系人やお寺のメンバーだけにとどまらず、人種や世代を超えて夏の風物詩になっています。ルーツのはずの日本人もびっくりです。例年なら、六月始めの土曜日から、八月最後の土曜日まで、どこかのお寺から太鼓の囃子や盆踊りの音楽が流れています。曲も、炭坑節から親鸞音頭、最近は、JPopの曲まで組み込まれ、ビューティーフルサンデーを踊り、最後に太鼓と一緒に福島音頭を踊ってお開きになります。

 是非、コロナ禍が終息したら、柳川組のみなさんでハワイの盆ダンスの時期に、また二0二七年は、ハワイで世界仏教婦人会大会が開催されることになっておりますのでご来布されませんか? 熱烈歓迎いたします。😊       合掌

浄土真宗と現代(5)

光明寺住職 傍示裕昭

 

 いま、毎月第一日曜日に「日曜礼拝法座」を開催し、来年3月の宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要に向けて「教行信証の総序」を法話しています。

 

 その総序の冒頭に、「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と、宗祖親鸞聖人の「ご自釈(ご自身のお言葉)」があります。非常に味わいのある御文で、難思の弘誓は、まさに「南無阿弥陀仏」のことです。阿弥陀さまの大きな船に乗せていただいて人生を渡らせていただいていますという、宗祖親鸞聖人さまの「最高のお気持ち」を浄土真宗の真髄としてお示しされておられます。

 

 一声のお念仏を申す時、もうすでに私たちは阿弥陀さまの「大きな船」に乗せていただいているのです。

 

 新型コロナウイルスなど、何が起こるかわからない現世の人生行路を渡って行くとき、こんなに「安心な人生の乗り物」は、何処を探してもありません。私のすべてを見つめて「一緒だよ、いつも一緒にいますよ」と、喚び掛けてくださっている仏さまは、「阿弥陀さま」だけなのです。

 

 三月の法語カレンダーにお示しいただいている、「われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親(阿弥陀さま)のよびごえ」は、熊本の原口針水和上のとても味わいのあるお言葉です。

 

 わたしが称えている「報恩のお念仏」はそのまま「仏さまの喚び声」として直に聞こえてくるということです。

 

 甲斐和里子先生(京都女子大学の創設者)は、「み仏を呼ぶわが声は 御仏のわれを喚びます みこゑなりけり」と、詠んでおられます。この歌も同じ味わいであり、浄土真宗の独特のお念仏の「用(はたらき)」であり、「阿弥陀さまからの喚び声のお念仏」という事を示しています。「私が仏を念ずるのではない、み仏さまに念じ続けられている私だったのだ」というお念仏の味わいです。

 

 拙寺の、ご本堂新築落成慶讃法要の時に、前門様をお迎えして「門信徒のつどい」を開催しましたが、その際に、前門様が、

 

 『今日は大変良いご縁をいただきまして、皆さんのお話を聞かせていただきました。四年前に退任いたしまして、その前は「組巡教」という名前で全国のお寺を巡回し、こういう門信徒のご法座に出ておりました。

 

 ご門徒の方々の率直なご意見や感想を聞かせていただいて、私も良い刺激を受けておりましたが、退任してからはそういう機会も少なくなっておりまして、久しぶりで元気の出るお話を聞かせていただいて嬉しく思っております。きっと、皆様のお気持ちは後々の方々に受け継がれていくに違いない、そう確信をしたところでございます。

 

 今日、お念仏を称えるということについて、

 

 いろいろとお話がでました。お念仏はいろんな味わい方ができますので、決めつけることではないと思いますが、私はその中でも「お念仏が出てくださる、出てくる」という受け取り方が非常にありがたいように思います。

 

 自分で何とかしようというのではなく、はからずも私の口から、阿弥陀さまのおこころが言葉となって出てくださる、ありがたくそれを自分でも聞くと。

(続)合掌

 

コラム石原節

■「石原節」で終わらせてはいけない

 

 二月一日、石原慎太郎さんが八九歳で亡くなった。想像していたとはいえ、石原さんの訃報を伝える全国紙の報道には失望した。「歯に衣着せぬ発言」「石原節」。こういう見出しや表現が紙面を飾った。その死を悼み、死者への礼を保つことと公人として残した悪影響を断つことは両立する。にもかかわらず、石原さんのあらゆる差別発言や暴言も「石原節」とひとくくりにして報じたのでは何の教訓も生まれない。

 

 弱者差別、民族差別、女性差別と具体例を挙げれば切りがない。

 

 石原さんは東京都知事となった直後の一九九九年、重度障害者の病院を視察した際に「ああいう人ってのは人格があるのかね」と発言。二〇〇〇年、陸上自衛隊練馬駐屯地の記念式典ではこう挨拶した。「不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害では騒擾(そうじょう)事件すら想定される。警察の力に限りがあるので、みなさんに出動していただき、治安の維持も大きな目的として遂行してほしい」。関東大震災時の朝鮮人虐殺を再びあおるような発言だった。

 

 翌〇一年、週刊誌のインタビューでは高齢女性を「ババア」と表現した上で「女性が生殖能力を失っても生きてるってのは無駄で罪です」と存在そのものを否定。極めつけは二〇一一年の東日本大震災の直後だった。「津波をうまく利用して我欲を洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」。被災者が激しく反発し、さすがに発言は撤回したが、謝罪はしなかった。

 

 「三国人」発言も「ババア」発言も、言葉が滑った失言ではない。確信犯である。それが差別であり、社会的に受け入れられない内容であることを百も承知の上で、言ってみれば社会を挑発したのである。そして私たちの社会は、その発言に眉をひそめる向きはあっても、押しとどめることはできなかった。それどころか、報道機関はこうした発言を「石原節」と呼び、個人のキャラクターの問題に帰結していった。一部の報道機関は「もてはやした」といっても過言ではない。

 

 その結果、石原さんの発言は「問題」として認識されなくなり、「石原さんだから仕方がない」という空気が急速にまん延。その空気は石原さん以外の政治家にも広がり、繰り返される麻生太郎さんの暴言や失言も「麻生節」で片づけてしまっている今がある。

 

 公人が差別を扇動し正当化する害悪は深刻で、正面から批判するのが報道の重要な役割である。石原さんの生前、あってはならない発言をきちんと正すことができなかったジャーナリストの一人として思うのは、石原さんの発言を「石原節」で終わらせてはいけないということである。その死を節目に「差別発言は許されない」という機運を醸成できないようではジャーナリズムとは呼べない。

 

(TVQ九州放送・傍示文昭)