浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

光明寺だより

浄土真宗と現代(5)

光明寺住職 傍示裕昭

 

 いま、毎月第一日曜日に「日曜礼拝法座」を開催し、来年3月の宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要に向けて「教行信証の総序」を法話しています。

 

 その総序の冒頭に、「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と、宗祖親鸞聖人の「ご自釈(ご自身のお言葉)」があります。非常に味わいのある御文で、難思の弘誓は、まさに「南無阿弥陀仏」のことです。阿弥陀さまの大きな船に乗せていただいて人生を渡らせていただいていますという、宗祖親鸞聖人さまの「最高のお気持ち」を浄土真宗の真髄としてお示しされておられます。

 

 一声のお念仏を申す時、もうすでに私たちは阿弥陀さまの「大きな船」に乗せていただいているのです。

 

 新型コロナウイルスなど、何が起こるかわからない現世の人生行路を渡って行くとき、こんなに「安心な人生の乗り物」は、何処を探してもありません。私のすべてを見つめて「一緒だよ、いつも一緒にいますよ」と、喚び掛けてくださっている仏さまは、「阿弥陀さま」だけなのです。

 

 三月の法語カレンダーにお示しいただいている、「われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 親(阿弥陀さま)のよびごえ」は、熊本の原口針水和上のとても味わいのあるお言葉です。

 

 わたしが称えている「報恩のお念仏」はそのまま「仏さまの喚び声」として直に聞こえてくるということです。

 

 甲斐和里子先生(京都女子大学の創設者)は、「み仏を呼ぶわが声は 御仏のわれを喚びます みこゑなりけり」と、詠んでおられます。この歌も同じ味わいであり、浄土真宗の独特のお念仏の「用(はたらき)」であり、「阿弥陀さまからの喚び声のお念仏」という事を示しています。「私が仏を念ずるのではない、み仏さまに念じ続けられている私だったのだ」というお念仏の味わいです。

 

 拙寺の、ご本堂新築落成慶讃法要の時に、前門様をお迎えして「門信徒のつどい」を開催しましたが、その際に、前門様が、

 

 『今日は大変良いご縁をいただきまして、皆さんのお話を聞かせていただきました。四年前に退任いたしまして、その前は「組巡教」という名前で全国のお寺を巡回し、こういう門信徒のご法座に出ておりました。

 

 ご門徒の方々の率直なご意見や感想を聞かせていただいて、私も良い刺激を受けておりましたが、退任してからはそういう機会も少なくなっておりまして、久しぶりで元気の出るお話を聞かせていただいて嬉しく思っております。きっと、皆様のお気持ちは後々の方々に受け継がれていくに違いない、そう確信をしたところでございます。

 

 今日、お念仏を称えるということについて、

 

 いろいろとお話がでました。お念仏はいろんな味わい方ができますので、決めつけることではないと思いますが、私はその中でも「お念仏が出てくださる、出てくる」という受け取り方が非常にありがたいように思います。

 

 自分で何とかしようというのではなく、はからずも私の口から、阿弥陀さまのおこころが言葉となって出てくださる、ありがたくそれを自分でも聞くと。

(続)合掌