浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

日本から新聞が消える日

 朝、目覚めてから最初にやることは決まっている。玄関を出てエレベーターでマンションのロビーに降りる。郵便受けから新聞を取り出して部屋に戻り、目を通すところから一日が始まる。三〇年近く、この日常は変わらない。

 変わったのは、同じように新聞を取りにロビーに降りる人が極端に減ったことだ。以前は多くの住人とロビーや廊下ですれ違ったが、今出会う方は数人しかいない。それほど新聞の定期購読者は減った。バスや電車での風景も同じだ。今、新聞を広げて読む人は皆無に近い。

 私の肌感覚の実感をデータが証明する。日本新聞協会によると、発行部数が最も多かった一九九七年は五三七七万部。かたや昨年は二六六二万部。一昨年からの一年間で二二六万部減り、ピーク時の半分になった。このままのペースで部数減が進めば、一二年後の二〇三七年、発行部数は限りなくゼロに近づく計算になる。「新聞は紙で読みたい」という読者がいる限り、新聞発行は続くとの指摘もあるが、日本独自の事情で新聞紙が消える日が現実となる可能性がある。

 ご存じのように日本の新聞販売は特殊で、世界にあまり例を見ない宅配制度によって成り立っている。コンビニや売店での店頭販売はごく一部に過ぎない。長期契約を結ぶ購読者の自宅まで届ける制度によって、安定した発行部数と販売収入は維持されてきたのだ。

 その宅配制度を末端で支えてきた販売店の廃業、閉鎖が相次いでいる。二〇〇一年は全国に二万一六一五店舗あったが、二〇二三年は四割減の一万三三七三店舗。新聞を自宅まで届ける宅配制度が足元から崩れ始めているのだ。

 新聞の一カ月の定期購読費は、西日本新聞の場合、朝刊・夕刊セットで四八〇〇円。新聞を印刷して販売店まで運ぶ新聞社が半分を受け取り、自宅まで届ける販売店が残り半分を受け取る。購読者の減少によって販売収入が減った影響もあるが、新聞に折り込む広告チラシの激減が大きい。

折り込みチラシの手数料は全額、販売店の収入。購読者が減った上、その大半が高齢者のため現役世代への影響力が一気に下がったことで、新聞にチラシを入れるスポンサーも激減。さらには未明から早朝に朝刊を届ける配達員が、七〇歳以上の高齢者ばかりという販売店も少なくない。配達員の確保は年々難しくなってきており、新聞を宅配できない地域も生まれている。

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 二〇三七年、日本から新聞が消える。そんな仮説が現実味を帯びる中、七月から古巣である西日本新聞社に復帰。「客員編集委員」という肩書でまた新聞記者として働くことになった。六六歳。残りの人生がどのくらいあるかは不明だが、二〇三七年に向かってあがき続けたいと思っている。(西日本新聞客員編集委員)

第二十五代専如門主伝灯奉告法要で依用された奉讃伝灯作法

「犬とともに生きる尊さ」 

「犬とともに生きる尊さ」  傍示真生子

 

 あっという間に今年も半年が過ぎようとしています。皆様、如何お過ごしでしょうか。

私は、基本的に仕事中心の生活ですが、たまに旅行をしたり、ゴルフに行ったり、友人と食事に行ったりと、毎日とても充実しています。

 でも、最近の休みの過ごし方は、昨年から飼っている愛犬と過ごすことです。今日はそんな私の愛犬を紹介します! トイプードル()1歳のココです。

 

 子どもの時からずっとワンチャンがいる生活に憧れがありましたが、ある休日にふらっとペットショップに入り、ココと出遇いました。私が一目惚れをしてしまいましたが、仕事もあるし、そもそも、犬を飼ったこともないしと不安だらけでしたが、どうしても忘れられず、ココと出遇った次の日に、我が家に迎え入れていました。((^_^))

 でもいま考えると、あのときの自分の勢い、決断にとても感謝していますし、これも何かのご縁だと、この不思議な巡り合わせに掌を合わせています。

 

 「ココ」という名前は、ディズニーの映画『リメンバーミー(原題:ココ)』という作品からきています。この映画は音楽が好きな少年ミゲルが、家族に音楽を禁じられているなかで、自分の夢と家族の歴史の謎を追い求めるなかで、死者の国に迷い込んでしまうーというお話です。リメンバーミーとは、物語の中心にある曲で、「誰かがあなたを思い出す限り、あなたは生き続ける」という意味が込められているそうです。家族を大切にすることや亡くなった人を忘れないという文化(メキシコの「死者の日」)がテーマになっています。

「大切な人を思い出すことの意味」を、優しく伝えてくれる映画です。私はこの作品が大好きで、死後の世界(お浄土)が本当に存在していて欲しいなあといつも思います。

 

ココは、人も犬も大好きで、とても人懐っこくて明るく元気いっぱいです。急に滑ったり転けたり、ぶつかったりとドジなところも多く、かわいいです。好きな食べ物はリンゴとサツマイモです。

 そんなココと過ごす時間は私にとって、毎日たくさんの笑顔と癒やしを与えてくれる大切な時間で、生きる力を与えてくれます。本当に感謝でいっぱいです。☆☆☆

 きっと私よりも短いココの人生を今後もっと彩り溢れる豊かな人生にできるように私も努力しようと日々思っています。

 犬とともに生きる尊さを少しでも伝えられていたら幸いです。

                             合掌

4月28日 光明寺門徒葬「謝辞」

本日は遠近各地より、母のためにご会葬を賜り、誠にありがたく、心より厚く御禮を申し上げます。今月2日 91年と8ヶ月余りの、この世での人生を全うし、お浄土に帰っていきました。6日にお通夜、7日に密葬を勤めましたが、、、その、密葬を勤めた7日の朝に、突然、ウグイスが来訪し、14日まで、ちょうど一週間の間、毎朝来てくれました。春爛漫の桜満開のこの時に、やってきてくれて、、酉年生まれの母が帰ってきたと直感しました。

 

 「ホーホケキョ、ホーホケキョ、法を聞けよ 法を聞けよ」と一週間の間、毎朝さえずり続けてくれて、いかにも、お念仏を喜んで、称えていた母らしい、季節外れの、、「桜にうぐいす、お浄土参りできた喜び」を、阿弥陀さまの化身となって、還相回向で帰ってきて、伝えてくれているんだなあと、ありがたく、、嬉しく、、感じました。

 

母は、昭和30年の12月25日に、熊本県宇土市の正榮寺からこちらに嫁いできました。今年で丸々70年になります。当時、「久留米は遠いなあ」と感じたそうです。また、父の学校勤務の関係で、冬休みに入った初日、クリスマスに佛前結婚式を挙げたのは、私と住職さんぐらいだろうと何度も話していました。クリスマスの佛前結婚式が、よほどの思い出になったのだろうと思っています。

 

人と接するのが大好きで、おしゃべりが大好きで、そして、お聴聞が大好きでした。典型的なお寺の坊守さんだったように思います。ときには、母に捕まっておしゃべりの相手をさせられて、閉口されたご門徒さんもおられたかと思っていますが、今日は、母に免じて許してください。

 

また、母は、90歳になるまで入院したことがありませんでした。「親から丈夫な身体をもろうて仕遇わせたい」と、何度も口にしては、と同時に、なんまんだぶ、なんまんだぶと、お念仏を称えていました。感謝のお念仏だったろうと思います。

 

母の生涯は、亡くなる時まで、お念仏三昧の日々でした。山口県下関市、六連島の妙好人、お軽同行の詩に、「鮎は瀬にすむ、小鳥は森に、わたしゃ六字のうちにすむ」と歌ってありますが、まさに、母も、詩の通り、なんまんだぶの、六字のうちにすんでいた生き方でした。

 

その、お念仏を愛しみ、お念仏三昧を過ごした母が、生涯で一番喜んでくれたことが

6年半前のことになりますが、御本堂の落慶法要で、大谷光真前ご門主さまに来ていただいたことです。最初は、半信半疑で聞いていて、「ほんなこつ、前門様がきなはっとね」と尋ねてきて、「ほんなこつたい、さっき、横浜の藤田先生から連絡があった」と話すと、「本当ね、長生きしとって良かったたい、きなはっときまで、生きとかないかんたい」としみじみ話していたのを覚えています。実際に来ていただいて、帰り際には、前門様から直接、母に、「坊守さま、お元気でお過ごしください」と、お声をかけていただいて、母が本当に感激して、顔が異常に紅潮していたのを今でもはっきりと覚えています。

 

このときに、母が寄進してくれた仏具が、今日、阿弥陀様の前卓にお供えしている「ご巡教記念の特別五具足」です。このときばかりは、母も「よか冥土の土産ができた」と、ご満悦でした。

 

よくよく考えてみると、「お浄土参りの人生」を、母は、自分で全部準備して、荘厳して、整えて、参っていったと思います。

 

昔、読んだ書物のなかに、「念仏して自己を充足し、報土の底に埋もれるをもって喜びとなす」という言葉がありましたが、病床にあった母のお念仏申す、そのすがた、お浄土に向かってひたすらに、お念仏申して自己を充足している、その生きざまに、私のほうが、逆に救われていました。安らかなる不思議なお念仏の世界に包まれていました。

 

4月1日、亡くなる前日、3年間、訪問診療でお世話になった、きずなクリニックの黒岩先生がみえて、「傍示さん、どうですか」と、声を掛けて(呼び掛けて)いただいたとき、母は、突然、「まあまあ」と、はっきりした声で応えました。こっちも、おもわずビックリしましたが、、、いかにも母らしい、その「まあまあ」が、そのまま、「安心して、お浄土参りします」と、私には聞こえて、人生に満足して行ってくれていると確信しました。

 私の学生時代の恩師、信楽峻麿先生も最後、亡くなられる2日前に、「いろいろあった人生だったけど、本当にいい人生だった」と、仰られて、お浄土参りしてあります。

 

 念仏の行者は、それぞれに、お念仏に喚ばれて自己を充足し、お念仏に喚ばれて

自己を完結させ、お念仏に喚ばれて生死の境界を超える。

 

 先達、先立った方々は、、私が申すところの、お念仏となって帰ってきてあります。思い出しては称え、、、称えては思い出しながら、本日ご会葬の皆さまと共々に、わたくしも、また今日から再び、お浄土への旅路を続けさせていただければと思います。

 

光明寺に嫁いできて70年、ご縁をいただいた多くの方々に、多くのご門徒さんに本当に御世話になりました。本当にありがとうございました。心よりの御禮の言葉とさせていただき、ご挨拶とさせていただきます。誠にありがとうございました。

合掌 南無阿弥陀仏

人生が二度あれば

 シンガー・ソングライター井上陽水さん(七六)の初期の作品に「人生が二度あれば」という歌がある。仕事一筋に生きて初老を迎えた父と家族のためだけに生きた母。夫婦でこたつを囲み、お茶を飲む姿を描写した歌詞は、ひたすら切ない。中学生のときに初めて聞いて以来、常に耳に残り、年齢を重ねるごとに違った感情を抱きながら聞いてきた歌だ。特に母を歌った二番の歌詞は、昔と今では明らかに受け止め方が変わった。
 ♪母は今年九月で六四 子供だけの為に年とった 母の細い手 つけもの石を持ち上げている そんな母を見てると人生が誰の為にあるのか分からない 子供を育て家族のために年老いた母 人生が二度あれば この人生が二度あれば
今年四月二日、九一歳の母を看取った。息を引き取る数日前、やせ細った母のベッドに寄り添ったとき、ふと脳裏に浮かんだのもこの歌だった。これまでも母の人生を思うとき、何度も思い出した歌だったが、この時は全く別の思いが駆けめぐった。晩年に交わした会話がきっかけだった。
「自分の人生を振り返ってどげんね? 幸せだったと思うね?」。ある日、私は唐突に母に尋ねた。三世代同居の大家族である寺の嫁として、趣味の多い夫の妻として、男ばかり三人の子供の母として、そして寺の坊守として、怒りや不満を黙って飲み込み、我慢に我慢を重ねて生きてきたのではないか。母に対し、陽水さんの歌詞と重なる思いがあったからだ。
母はしばらく考えてからこう答えた。「幸せだったかどうか、あんまり考えたこともなかね」「ただ不幸だと思ったことは一度もなかけん良か人生だったと思うよ」。そして、こう付け加えた。「もう十分生きたと思うけど、まだお浄土からお迎えが来んたいね」
母の理想は「ピンピンころり」だった。九〇歳になる直前まで入院したことがないほど健康で、食欲も旺盛だったが、足腰が弱ってから弱音が出始めた。慢性の腎臓病が悪化し、塩分摂取を制限されてからは特に「長生きし過ぎた」の言葉が増えた。大好きだった鰻のかば焼きをはじめ食べたいものを口にできないことが相当つらかったのかもしれない。
 門徒葬が終わり、満中陰を過ぎてからも、母の人生を思うとき脳裏に「人生が二度あれば」が流れる。「人生が二度あれば、また同じ人生を歩みたいと思うね?」。生前、私は母にこの問いかけをしなかった。聞かなくてよかったと思う。愚問だ。人生は誰のためにあるのか。夫や子供たちと平穏な家庭を築き、門徒とともに生きた母の人生は、紛れもなく母のためにあったのだから。合掌。

既存メディアの存在意義

 西日本新聞社の編集局長だった五年前、不祥事で記者二人が懲戒解雇されたことに関する記事をネットメディアが配信した。解雇自体は事実なのだが、不祥事にいたる経緯は面白おかしく書き立てられた。局長である私にも原因があったと指摘された。人事権を持つ私に嫌われ、ライン職を外されたことから「仕事へのやる気を失い、不祥事につながった」などと。ほかにも事実と異なる内容が多く、社内では記事の削除や訂正を求める声も上がったが、静観した。不祥事を防ぐことができなかった管理・監督責任は免れないからだ。

 ただ、そこからが大変だった。記事の中から私個人に関する記述が切り取られ、交流サイト(SNS)上で拡散した。書き込みには明らかなデマも盛り込まれ、中傷は続いた。なかには人格を否定するような暴言もあり、見えない相手から攻撃される怖さを実感した。

 昨年末、元タレントの中居正広さんと女性の性的トラブルを一部週刊誌が報じて以降、SNSでは関係者への誹謗中傷がやまない。事実関係があいまいな中、当事者二人に加え、社員がトラブルに関与したと報じられたフジテレビ、さらには無関係な女性アナウンサーに関するデマや心ない中傷も過熱化している。兵庫県知事のパワハラ問題を追及した元県議が誹謗中傷を受けて自殺したとみられる件も含め、集中的に攻撃される「ネットリンチ」は、加速度的にエスカレートしている。

 多くの識者は、その背景に「誤った正義感」があると指摘する。世は人類総メディア時代。SNS上では誰もが自由に、顔や名前を隠して意見を発信できる。自分が正しく、相手が間違っていると信じ、自らの価値観に基づく正義感で攻撃する。だから誹謗中傷していることにも気付いていない。批判と中傷は全くの別物なのだが、その違いも全く認識していない。他者を尊重し、自分が嫌なことは他人にも言わないという当たり前の道徳心はかけらもない。閲覧数で広告収入を稼ごうとするユーチューバーの存在も大きいだろう。

 中居さんの性的トラブルをめぐっては、週刊文春がフジテレビ社員の関与を報じた記事の内容を一部訂正した。同誌は訂正前に記事を軌道修正していたが、その姿勢をめぐって批判が殺到。当初、記者会見出席者を一部に限定した上、説明責任を欠いたフジテレビの一連の対応のまずさも含め、既存メディアへの不信感は業界全体に広まっている。
SNSはニュースメディアにもなっている。そこには真偽不明の情報や意図的なデマも入り乱れている。だからこそ新聞やテレビ、雑誌などの既存メディアこそ、SNSのデマに真っ向から立ち向かい、ファクトチェックを迅速かつ徹底的にやるべき責務がある。長年にわたって視聴者や読者から信頼を得てきた既存メディアの存在価値もそこにある。

 果たしてわれわれ既存メディアは信頼を回復できるのか。その鍵は、ファクトチェックできる取材力を維持できるかどうかにかかっている。

報恩講法要ならびに前住職二十五回忌法要「表白」

【表白】

 敬って、大慈大悲の、阿弥陀如来の御前に、申し上げます。

 本日ここに、恭しく尊前を荘厳し、懇ろに正信念仏偈を唱和して、紫雲山光明寺 宗祖親鸞聖人七百六十三回忌・「報恩講法要」並びに、光明寺第二世住職・順道院釋曉了・俗名 傍示曉了の、二十五回忌法要をお勤め致します。

 宗祖親鸞聖人様は、1173年5月21日 京都山科、日野の里にお生まれになり、御年九歳で、青蓮院でお得度され、比叡山延暦寺の仏門に入られ、20年にわたって自力聖道門のご修行にいそしまれました。しかし、「生死の悩み」を超越することができず、二十九歳の時、誰もが救われる道を求めて、法然上人の草庵を訪ね、ついに自力修行の道を棄てて、

 南無阿弥陀仏の本願他力、お念仏の世界に帰し、浄土の法門を極められました。

 特に、顕・浄土真実教行証文類・教行信証を説き示して、浄土真宗の教義体系を確立され、晩年には、三帖和讃をはじめ数多くのご聖教を書き残し、智恵の灯火を、高く掲げて、人の世の闇を照らされました。

 しかし、悲しい事に1263年1月16日 ついにお念仏の息絶え 往生の素懐を遂げられたのであります。御年九十歳でした。それから、すでに762年の歳月を経ましたが、ご高徳はいよいよ輝きを増し、浄土真宗のみ教えはますます広まり、本願念仏を信じ、お念仏を申す者は国の 内外に 満ちあふれています。

 おかげさまで、光明寺は、明治44年の開山以来、今年で116年目を迎えています。また、本日は、第二世住職・傍示曉了の二十五回忌法要を無事に迎えました。本当に有り難い事だと思っております。前住職は、生前、明善高校の定時制で教鞭を執りながら、二足のわらじで、まだまだ発展途上の段階にあった光明寺の法灯の護持発展、仏法興隆に努力しました。学生時代から、スポーツや音楽にいそしみ、特に合唱は、希有なるバリトンの歌声で人々を魅了し、宗門の世界においても、「勤式・お経の先生」として、その名声は、福岡教区のみならず、御本山にまで轟いていました。

 その父が、亡くなる時に残した、言葉が、「お前には、親父の代からの悲願だった本堂改築という大きな仕事を残していくが、宜しく頼む」でした。

 その父の遺言を、尊い「みちしるべ」として、平成13年春から「光明寺開基百周年記念事業」に、寺族、門信徒一丸となって取り組み、後世に誇るべき立派な、伽藍を完成することができました。

 そして、6年前・平成30年11月3日に、京都ご本山 西本願寺から、本願寺第二十四代、大谷光真、前御門主様をお迎えし、盛大に「御本堂等、新築落成慶讃法要」をお勤めする事ができましたことは、、光明寺の草創期から今日に至るまでの間、ちょうど116年、この間、先達の寺族をはじめ、、先立った有縁門信徒方々の、お見守り・お導き・お支えが、あればこその「證」として、無事に、元気に、お参りが出来る事だと、肝に銘じております。

 

 

 宗祖・親鸞聖人様がお示し戴いた、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」との仰せを、生きていく「ともしび」とし、、、「他力真実のむねを、あかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば、仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」とのお言葉を、生きていく「よすが」として、今後は、、「念仏して自己を充足し、報土の底に埋もれるを持って喜びとなす、覚悟を磨いて」、生きて往く所存です。

 

お念仏、「なんまんだぶつ」に、「立ち上がる元気をいただく人生」は、「いつでも、どこでも、お慈悲のど真ん中・・いつ死んでも大丈夫、いつまで生きても大丈夫」と、我が人生を、阿弥陀様に見守っていただき、支えていただき、案じていただきながらの人生行路です。

 本日、この、報恩講ご法要、並びに、前住職二十五回忌ご法要の、ご勝縁に遇って、いよいよ、聞法・お参りにいそしみ、四海のうち、みな御同朋・御同行のご遺訓を体しつつ、先人先達の御恩、御遺徳に「感謝の誠」を捧げながら、もろともに、お浄土への人生の旅路を「精一杯、生ききる」決意です。            合掌 なんまんだぶつ

 

令和6年11月30日  紫雲山光明寺住職  釋裕昭  謹んで申し上げます。

日本シリーズ舞台裏の制裁

株式会社テレビ西日本(TNC
特別参与 傍示文昭

 

 二〇二四年プロ野球日本シリーズは、セ・リーグ三位の横浜DeNAベイスターズがパ・リーグ覇者、福岡ソフトバンクホークスを四勝二敗で下し、二六年ぶり三度目の日本一に輝いた。横浜ファンには忘れられない日本シリーズになったが、報道に携わる者にとっても決して忘れてはならない禍根を残した日本シリーズと位置付けられる。日本野球機構(NPB)がフジテレビに下した処分は、明らかに表現の自由を著しく制限した恣意的な制裁として記録しておかなければならない。

 私が所属するテレビ西日本のキー局であるフジテレビは、日本シリーズと日程が重なった米大リーグのワールドシリーズ、ドジャースーヤンキース戦を日本時間午前に生中継し、夜のゴールデンタイムでもダイジェスト番組を放送した。これに対し、NPBはフジに支給した日本シリーズの取材パスを回収。事実上の出入り禁止処分を行って現場から記者を締め出したのだ。
NPBは処分直後、正式なコメントを一切出さず、井原敦次事務局長は二週間後ようやく没収理由を発表した。「球団、中継局、スポンサーなどが一体となって日本プロ野球のコンテンツ価値の向上、野球ファンの裾野拡大に努めてきた中で、フジのワールドシリーズ中継方針は、日本シリーズの価値やプロ野球を取り巻く関係者と団体が築き上げてきた信頼関係を毀損する行為」。つまり契約上のルール違反に対するペナルティではなく、感情的な制裁なのだ。

 そもそも報道機関が事実を調べ、伝えるための取材の場を奪うことは簡単に許されるべきではない。現場で事前に取り決めたルールに違反したのであれば、その不始末を理由に記者が一定期間出入り禁止になっても仕方がないだろう。しかし、フジが局としてどの時間帯にワールドシリーズを放送するかは、取材活動とは一切関係がない。「どの番組をいつ放送するか」という放送番組編成は、テレビ局の表現の自由の根幹で、放送法も真っ先にこれを保障している。「気に入らない番組を放送したから取材禁止」というNPBの対応は、放送法の考え方を真っ向から否定するもので決して許されるものではない。

 一度これを受け入れると、極論すれば日本シリーズの裏番組では米大リーグのみならず、サッカー日本代表の試合などの人気スポーツ、さらには災害や事件事故などの特別報道番組まで「日本シリーズから視聴率を奪う番組は放送するな」ということになる。そして何より問題なのが、NPBが処分理由を正式に説明しないままパス没収という重大な制裁を下した点だ。もしフジの番組編成が取材を禁ずるほど重大な背信行為だと考えるなら、NPBは正々堂々と処分を公表し、その大義名分を説明すべきだった。それをせずに水面下で取材パスを取り上げることは公明正大とはいえない。

 報道に携わる者はもっと怒らなければならない。

ハンセン病の現在

 記者になって四〇年を超えた。この間、取材や会合を通して多くの人との出会いを重ねてきたが、再会して話をするたびに背筋が伸びる人がいる。その一人、九州大名誉教授(刑事法)の内田博文さん(七八)に久々にお会いした。取材で初めてお会いし、自らの不勉強ぶりを恥じてからすでに三五年。相手が誰であろうと忖度なく、穏やかな語り口で鋭く核心を突く「戦う法学者」ぶりは健在だった。

 内田さんは二〇二一年七月から国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)の館長を務めている。月の半分は福岡市の自宅を離れ、東京に滞在。患者への隔離政策や差別の実態を示す資料など約九〇〇点が常設展示されている資料館の運営や展示内容の改善を図りつつ、国のハンセン病差別解消に向けた施策検討会の座長などを務め、講演にも飛び回る。国の施設の責任者であっても国におもねることはなく、偏見や差別の解消が進んでいないのは「政府の怠慢」と言い切る。今回お会いしたのは、福岡市で開かれたハンセン病勉強会の後の懇親会だった

 ハンセン病はノルウェーの医師ハンセンが発見した「らい菌」による感染症。かつてはらい病と呼ばれた。治療法がなかった時代に発病した人は顔や手足が変形したため、奇病として恐れられた。国内での強制隔離政策は一九〇七(明治四〇)年に「ライ予防ニ関スル法律」が公布されて始まり、一九三一(昭和六)年の旧らい予防法制定後は官民一体で地域の患者を収容する「無らい県運動」が展開された。

 松本清張原作の映画「砂の器」を観た方は、よくお分かりだと思う。家族への感染や差別を恐れて放浪の旅に出た患者は強制的に捕えられ、療養所に隔離された。戦後、薬の開発によって治療法が確立した後も隔離政策は続き、断種や堕胎といった人権侵害や差別を引き起こした。強制隔離は根拠法である新らい予防法が廃止された一九九六年まで続けられた。

 内田さんがハンセン病への関心を深めたのは、隔離政策が解除された直後。九州大の学生たちとともに熊本県の療養所「菊池恵楓園」を訪ね、入所者とじかに接したのがきっかけだったという。二〇〇一年以降、内田さんも関わり元患者や家族が起こした損害賠償請求訴訟の判決で、国の誤った強制隔離政策は断罪され、その責任は確定した。にもかかわらず社会の偏見差別は根深く、人生を奪われた人々の尊厳の回復は果たされていない。

 「国の取り組みがなお不十分なことは明らかですが、かつて国策の過ちに迎合したメディアの対応も不十分ですね」「ハンセン病問題はまだ終わっていませんよ」。内田さんはかつてと同じように、穏やかな口調で私に活を入れた。

 隔離政策の解除後も多くの元患者は故郷に帰れないまま療養所での生活を続けている。厚生労働省によると、全国一三カ所にある国立療養所の入所者数は今年五月現在、七一八人。昨年から九二人減り、平均年齢は八八・三歳になった。

「髹漆みよし」  

株式会社「髹漆」三好金司

 

 

 「髹漆」とは、漆芸の意味を言い、在来工法、即ち伝承されてきた手工芸。刷毛を用い、化学的工法は使用しない事をおもうが。近年、この工法、材料も全く別物の塗料、下地我が使用され、本来の漆、金箔の質感の違った製品ばかりになり、漆100%ではなく、吹き付け用の純度90%ほどのウルシ?、下地はポリサイト(化学装品)で吹き付けし、これを佛前の荘厳として使用している。全く嘆かわしいことである。

 

 以前、金沢工業大学の小川教授が、漆の効果を調査研究した結果を思い出した。漆には、抜群の殺菌の効果ある。プラスチック、ガラス等の化学製品に大腸菌を塗布した結果、化学製品の滅菌は得られず、「漆の効果は、千分の一まで減少との結果が発表された。故に、仏事等の朱膳は元来、水銀朱が練り込んであり、高価であり、それ以上の効果があると考える。

 

 また、本漆は、梅雨時期や雨天の際にも、全くと言って良いほど曇りや水分が生じにくい。これは基の木材から上塗りまで通気を遮断しないことに他ならない結果であり、殺菌と曇りのない世界を顕(あらわ)すことは「お浄土の世界」、つまり、何も変わらぬ不変の世界を顕すための材料とあらためて思うことである。

 

 先日、朝日新聞「天声人語」欄に、自動車メーカーの性能試験の不正についての掲載があった。トヨタ自動車の豊田章男会長は会見で、「ブルータスお前もか」との感想を言ったことは、自社の不正に関して発する言葉ではなかろう、顧客の言葉を奪ってはならぬ」と。

 トップの信念や自らの経営の姿勢に変化があってはならない。ましては、人々の命に関係する「ものづくり」に。

 

 日本の「ものづくり」には、丁寧さがあります。この伝承されたものづくりを裏切ってはいけない。ましてや、仏さまの御前の荘厳具、構造物の施工に於いては、みだらな心、不誠実な姿勢があってはならない。経営トップ者たちは、自らが引き受け継承してきた創業者達の願いを命懸けで相続し、次代へのバトンタッチにふさわしい人々を創っていかねばならない。

 

 私は、当社創建の際、三つの約束を示した。(1)下請けをしない(2)手工業、在来工法、伝承された自然材料を使用し、下地は堅地、本堅地の工法。膠下地(半田地)や吹き付け等、現行の化学装品は一切使用しない。(3)浄土真宗系の仕事しかしない。

 

 創業10年目の小さな会社ですが、この思いは現在も微動だにしない。全てに亘り、トップが転べば、生活から、夢、計画が全てが惑うことになる。思えば、このものづくり、仕事の分別がつく40歳くらいの頃、いつも阿弥陀経を読み、お浄土の世界に憧れを持ち、先人が顕(あらわ)し、形とした荘厳に今でも尊崇の念を思わずにはおれない。今の仕事に誇りと、お浄土の姿を、次代に引き渡す気持ちを持って、『不退』。           合掌