浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

「御本山での仏縁」   

光明寺副住職 傍示顕信

御挨拶

 こんにちは。4月から久留米に帰って参りました。大学のときに久留米を出ましたので約14年ぶりの久留米での生活となります。一昨年の3月に勤めさせて頂いた会社を退職し、昨年度は京都のご本山(勤式指導所)にて、勤式作法(お経を中心に作法や雅楽など)の勉強をして参りました。浅学非才の身ではありますが、今後ともよろしくお願いいたします。

 

 勤式での1年間の生活も終わりかけた頃、ある有難いご縁に恵まれました。「龍笛(りゅうてき)」という、主に雅楽で用いられる笛を購入させて頂いたご縁です。今年の大河ドラマである「光る君へ」でも雅楽の演奏シーンが度々出てくるので、雅楽に少し馴染みが感じる方もかなり増えたのではないでしょうか。

 なぜ仏教で雅楽?と思われる方もおられると思います。私も最初はそうでした。今は専ら神道で依用されるイメージが強いとは思いますが、実は元を辿れば、聖徳太子が中国から仏教を取り入れられたときに、一緒に取り入れられたようです。中国仏教で雅楽が用いられていたようですから、それに倣おうといった形です。浄土真宗では、第14代御門主様である寂如上人の時代に取り入れられた記録があり、今日まで受け継がれています。本山の御堂衆(勤式のプロ集団)による雅楽の演奏は圧巻ですので、ぜひいつか御門徒の皆さまと一緒に本山にお参りを、と考えております。

 

 雅楽は世界最古のオーケストラと言われ、千年以上の歴史があります。雅楽の楽器は基本の3つがあります。それは主旋律を奏でる「篳篥(ひちりき)」、篳篥の旋律を装飾する「龍笛」、演奏を和音でしっかり支える「鳳笙(ほうしょう)」です。篳篥は大地の人の声、鳳笙は天から差し込む光、龍笛は天地の間を飛ぶ龍の鳴き声を表すとされます。他にも打ち物や、琴、琵琶が入ったりすることもあります。勤式では、3つのうちどれか1つを選んで専攻する形だったので、私は龍笛を選びました。入門編ということで、プラスチック製の笛を購入して練習や試験に臨みました。いずれは皆、「本管」と呼ばれる、職人さんが自然の竹で作られる笛を購入することになります。本管は、まず品質の良し悪しがあり、1つ1つ個性もあるので、奏者と笛の相性があるとされます。ゆえに、本管を10本並べて、購入に至るものが1本あればいいくらいなのだそうで、龍笛の先生からも「本管は自分に合うものをゆっくり探していくように」と言われていました。気軽に買えないような値段でもあるので、急いで焦って買うわけにもいかないという事情もあります。

 

 

 今年の2月頃に、思いがけず、本管の買い手を探している方がいるという話を頂きました。在学中は本管購入は全く頭に無かったので、お話だけ聞くつもりで連絡を取ってみました。試し吹きをさせて頂いたところ吹きやすくて、先生にもお見せしてご推薦(後押し)を頂けたりなど、いろいろなご縁が重なり、購入に至ることができました。

 

 持ち主の谷川さん(仮名)とは購入のやり取り以外にも、いろんなお話をさせて頂く中で、お家が私が働いていた群馬の会社の近くで、さらに久留米にもゆかりがある方で、お互いに意外なご縁があることがわかりました。さらに、今回購入した笛は、谷川さんのご友人である原田さん(仮名)が亡くなる直前に、原田さんから買い取られた笛だったのですが、原田さんの戒名に、光明寺の山号である「紫雲」が使われていたそうです。谷川さんはこの不思議な縁を目の当たりにして、「あなたに譲るために原田さんから預かっていただけなのかもしれない」とおっしゃっておられました。今回、私以外にもこの話を聞かれた方が多くおられたようですが、その中で私の元に来てくれたのも、単なる偶然ではなく、何かに導かれて来たように思えます。

 

 原田さんは、雅楽がお好きで笛をとても大事にされていたそうです。お会いしたことは無いですが、その思いを受け継いで精進していきたいと思います。ちなみに谷川さんは、おそらく日本で指折りの龍笛奏者として活躍されておられる方です。レベルも活動の場も違うのもあり、今回の件が無いと出会うことも無かったと思います。そのことも含めて、本当に尊いご縁となりました。

 

 今年の11月30日(土)は、光明寺の報恩講法要、並びに、祖父(前住職)の25回忌の法要として、雅楽を依用する予定です。このような雅楽を用いた荘厳な「音楽法要」は、なかなか無いことですので、ぜひこの機会にご参拝ください。ご門徒様に限らず、ご親戚・お知り合い・ご友人などお誘い合わせの上、どなたでもお待ちしております。

合掌

 

「ご縁に感謝しお念仏とともに」

 この度、光明寺及び柳川組の門徒代表を拝命致しました中林良則と申します。

 身の引き締まる思いではございますが、精一杯勤めを果たす所存にございますので、宜しくお願い致します。

 

 初めに私の略歴ですが、昭和32年に福岡市南区に生まれ、大学で長崎へ赴きますまでは、良き昭和の時代を福岡で伸び伸びと過ごしました。その後就職をし全国を巡り、一昨年退職を期に郷里の本地へ戻って参りました。

 光明寺の傍示住職とは高校時代の同級生であり、親しくなり約50年になります。前住職の曉了様、お母様の坊守様をはじめ、光明寺のご家族全員には大変親しくしていただき、思い出は尽きません。

 17年前に私の前妻に先立たれた折りに遺骨を、信頼する光明寺にお預けすることとなり、その際に改宗し光明寺の門徒となりました。その際にはお許しをいただきに福井の永平寺に伺い、その足で京都へ赴き真宗信者となるお誓いをするために本山・西本願寺へ伺いました。

 

 思い返しますと真宗とのご縁は随分と昔からありました。私の母方の実家(佐賀県牛津町)は熱心な真宗信者で、幼い頃から「なんまんだぶ なんまんだぶ」と毎朝仏壇に手を合わせ正信偈を唱えて一日が始まりました。その頃の念仏を唱えていた祖母等の思い出は今でも鮮明に蘇って参ります。幼少から分からないながら信仰心はあったようで、お寺のお参り事には親が行けない時には代わって行くような子どもでした。

 

 時が経ち、前妻の13回忌を経て同じように前夫を亡くした現在の妻と再婚をしましたが、現妻が以前に嫁いだ先も「築地本願寺」の門徒で、その義理の母は熱心な信者で、「得度」までされた方でした。婚前より亡夫の墓所である杉並区の「和田堀廟所」には折りあるごとにお参りして来ました。また、約40年間勤めておりました会社の創業者・中島董一郎も、真宗の門徒で、私は経営に携わる役職をしておりましたので、会長と社長が眠る「築地本願寺西多摩霊園」に、盆正月欠かさずお参りをして来ました。こうしたことを振り返ってみましても、御仏様の慈愛と、いただきましたご縁には驚きと共に深く感謝致しております。

 

 真宗の拝謝である「仰ぎ称えるお念仏」は、日常生活に根付いたものであり、苦楽があっても心を落ち着かせ、自身を見つめ、阿弥陀仏の救済に感謝し、俯いた顔を浄土に向かわせる崇高な「阿弥陀如来のはたらき」であると思います。

 現代社会において宗教は、人々の精神的な支え、コミュニティの形成、道徳的な指針、平和と共存、環境問題への取り組みなど、様々な役割を果たすことが期待されています。宗教の形態や内容は時代とともに変化していく可能性はありますが、その本質的な価値はこれからも変わらないはずです。

 私達真宗門徒も、これからの浄土真宗の役割と在り方を宗祖御誕生850年、立教開宗800年の慶節の年に今一度考え、門徒一丸となって有るべき姿で、宗祖親鸞聖人さまの御遺徳を、次代の人々に伝承して行けたらと思います。

合掌

正義の行方

「聞く姿勢」の欠如

 そもそも聞く姿勢も、謝る姿勢も持ち合わせていない。長い水俣病の歴史の中で、環境省に一貫して欠けていたものが一瞬にしてあらわになったなという印象だった。

 五月一日、熊本県水俣市であった伊藤信太郎環境相と水俣病の患者・被害者団体の懇談で、環境省側は一団体の発言時間を三分と設定。時間が来ると一方的にマイクの音量を絞り発言を遮断した。この時の映像を見るたびに切なくなる。
昨年春に痛みに苦しみながら亡くなった妻の無念さを訴えている途中に、マイクを切られた水俣病患者連合副会長の松崎重光さん(八二)は、顔を上げ悲しげな表情で立ちつくした。 「皆さまのお話を伺える重要な機会と考えている」。懇談の冒頭に、こうあいさつした伊藤大臣はマイクが切られても素知らぬ顔。帰り際に参加者から詰め寄られると、逃げるように言い放った。「マイクを切ったこと、ちょっと認識していません」。水俣まで何をしに行ったのか。西日本新聞東京報道部の記者として環境庁(当時)を担当していた三〇年前を思い出し、あのころと何も変わっていないことを痛感した。

 一九五六年五月一日の水俣病公式確認以来、有毒なメチル水銀を海に流し続けた原因企業チッソとそれを放置した政府など行政の責任を問う被害者に対し、国は救済範囲をできるだけ狭くしようとしてきた。司法がその姿勢をただし、新たな制度が継ぎ足されるという歴史に終止符を打つため一九九四年、時の村山富市政権は動いた。 「患者」とは認定しないが、司法救済を求める患者を「被害者」と位置付けて一時金を支払うという政治決着を図った。政治家や官僚の言動を丹念に追いながら連日、記事を書き続けた。

 「水俣病は環境庁の原点」。被害者と向き合う担当職員もそう公言していたが、本音は「水俣病さえ解決できない弱小官庁」の汚名を返上するのに躍起だった。行政の責任を棚上げして幕引きを図ろうという政治決着は、聞く姿勢も謝る姿勢もない環境庁にとっても都合の良い解決策だった。ただ、生まれた年や暮らした場所による「線引き」などで対象から漏れる人が相次ぎ、全面的な解決にはならず今に至っている。被害者と向き合おうとせず、「現地でつるしあげられるのは嫌だな」という本音が透けて見えた姿勢は、環境庁から環境省に格上げされても何も変わっていなかったということだろう。

 水俣での懇談で環境省は、一団体の持ち時間を三分とする運用を二〇一七年から続けていた。議論が紛糾して時間が押し、どうしようもなくなった時にはマイクを切る措置も決まっていたが、実際に切ったことはなかったという。今年から「三分を超えたら音量を落として発言を遮断する」という運用に変わったが、懇談参加者には事前に伝えられていなかった。つまり、聞く姿勢をさらに後退させた結果、起こるべくして起きた失態だったのだ。
伊藤大臣はその後、再び水俣に出向いて無礼な対応を直接謝罪した。心からの「謝罪」なのかどうか。「意見は聞いた」というアリバイ作りのために懇談の場を設けていたことが明らかになった今、患者・被害者との間に新たに生まれた溝は、言葉だけでは決して埋まらない。

感謝のこころで生きてます

久しぶりに投稿を頼まれたので、

私の最近の日常を書きたいと思います!

文才がないので唐突ですが、最近は特に時の流れが早いな~と思っています。笑

 

新年度、4月になったと思ったらあっという間に2ヶ月が過ぎていました。

毎日残業しているわけでもなく、ふつうに仕事して息抜きして、という変わらない日常のはずですが、本当に1日1日があっという間です!

 

仕事もサービス業ということもあり、常に人に関わっているからか時間の流れが速いです。

お客様だけでなく、内部の人との会議や引継ぎ等のコミュニケーションもあるので、

日々気づいたらあと1時間で終業( ゚Д゚)やばい!なんてことも日常です。笑

 

でも私はやっぱり人と関わることが好きみたいで仕事が苦ではなくて、たまに変な苦言や対応にぶつかることもありますが、

有難いことに本当に周りに恵まれていて自然と手を差し伸べてもらえることが多いです。

 

プライベートはというと、最近ゴルフを始めたり(大人になった気分♪)友人がドライブに連れてってくれたり、

仕事終わりに同僚と芝公園で夜ピクニックをしたり、韓国へ旅行に行ったり、とこうやって書いてると楽しいことだらけですね笑。

 

先日は2泊で久しぶりに帰省もできて、兄夫婦と甥っ子、生まれたての姪っ子ちゃんに会えてとても幸せな休日でした😊

次はお盆に帰省するので、また成長した甥姪に会えるのが楽しみでたまりません✨

 

毎日が充実して周りに恵まれているのも

離れてても気にかけてくれてる父や、

お浄土から見守ってくれている母、

いつもうるさい私の側にいてくれる兄弟達の支えがあるからだと思っています。

やはり家族の存在は偉大!!

私もいつかは自分の家族のような

家族がほしいと思っています✨

 

こんな感じで変わらない日常ですが、

毎日がとても充実していることを有り難く

幸せに思っています。

日々周りへの感謝を忘れずに、関わってくれる人を大切にしていきたいです😊✨

 

大したネタもなく、書かせていただきましたが、

寒暖差が激しく疲れがとれにくい気候だと思いますので、どうかお身体だけはご自愛ください。

合掌

MAOKO

 

原発計画を止めた父の教え

 日本国内にある原子力発電所は、福島第一原発など一七カ所に上る。一方、これまで電力会社が建設計画を公表した後、地域住民の反対などで計画を断念した候補地は五〇カ所を超すという。そのひとつに石川県能登半島の先端にある珠洲町が候補地だった珠洲原発がある。

 今年元日、珠洲町などをマグニチュード七・六の大地震が襲った。その震源は、電力会社が珠洲原発を建てようとした場所のほぼ真下だった。海岸線は最大四メートル隆起し、沿岸には津波が押し寄せた。能登半島にある道路はすべて寸断され、建物は大半が壊滅的な被害を受けた。「もし珠洲原発が稼働していたら」。そんな声とともに今、あらためて珠洲原発が幻に終わった経緯と建設を阻止した住民の行動が注目を集めている。

 四九年前の一九七五年、関西、中部、北陸の電力三社は協同で珠洲市の高屋地区と寺家地区の二カ所に原発を建設する計画を発表した。政府も後押しした。高屋地区の住民は当初、大半が反対派だったが、電力会社側は当然、懐柔に動いた。説明会での飲食接待や原発視察名目の接待旅行、芸能人を呼んだ住民向けのコンサートの開催。地域の祭りで使う奉灯の収納庫や農作物の保冷庫などを建てるための多額の寄付もあった。原発予定地の土地を関電に貸し、億単位の賃貸料を得た住民もいたという。「カネ」の力の前に、一人また一人と賛成に回り、地域は分断されていった。毎年秋の住民運動会は中止され、原発に反対する商店では賛成派による不買運動も起きた。

 地域を二分する対立が決定的となったのは一九八九年、高屋地区の建設予定地で始まった電力会社の現地調査だった。反対派の住民たちは調査に入ろうとした関電の車列を阻止し、市役所で約四〇日間にわたって抗議の座り込みを行った。その中心にいたのが、高屋地区にある浄土真宗大谷派の寺院、円龍寺の第二〇代住職、塚本真如さん(七八)だった。

 今回の地震で円龍寺も壊滅的な被害を受け、塚本さんは二次避難先である加賀市のホテルで避難生活を送っている。西日本新聞の友好紙である中日新聞の取材に応じた塚本さんによると、計画が持ち上がった当初は賛成派でも反対派でもなかったという。むしろ賛成、反対で対立を強める門徒の住民を諭す、いわば仲介役を担った。

 「現地調査までは表に出ないようにしていたが、このときは大声を上げた。行動しないと何もならんと。知らん間にリーダー的な存在に祭り上げられていた」と塚本さん。円龍寺は闘争の拠点となり、住民らはお念仏を唱えて道路に座り込んだ。

 反対派で建設予定地の土地を共有化したり、関電株を買って計画撤回の株主提案をしたり。塚本さんらの反対運動が実り、電力三社が計画凍結を発表したのは二〇〇三年一二月。計画が持ち上がってから二八年が経過していた。

 中日新聞のインタビューで最も興味深いのは、当初中立の立場だった塚本さんがなぜ反対派に転じたのかという点だ。「強い者の味方をしたら坊主じゃない」。先代の住職である亡き父の教えが原点だったという。

「浄土真宗と現代」(8)

柳川組「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)推進協議会 「開催報告書」

                   光明寺住職 傍示裕昭(本願寺派輔教)

 

《問題提起》

(1)『今までの領解文』と、『新しい領解文』(浄土真宗のみ教え)とを対比しながら、それぞれの『文言』を押さえつつ、『真宗聖教全書』や『御文章』、そして『安心論題』等に問い尋ね、確かめるかたちで考究を進めた。

(2)『新しい領解文』(浄土真宗のみ教え)を考察するに、問題提起として、『文言』の何カ所かに、

(A)聖道門と浄土門の境界の混乱

(B)倫理道徳と宗教の枠組みからの逸脱 それぞれの領域の混在

(C)相対の世界と絶対の世界との混同

等々の、上記の三点を提起して、問題性の把握につとめた。

 

《質疑応答》

(1)新しい領解文(浄土真宗のみ教え)が御消息として、昨年1月16日に発布された時の、総長はどなたでしょうか。

(2)現在、全国の教区、そして有志の方々でさかんに『新しい領解文』(浄土真宗のみ教え)の学習会が行われていると聞いていますが、その内容はどうなのでしょうか。推進される立場での学習会なのか、それとも、その逆の立場なのでしょうか。

(3)今後、新しい領解文(浄土真宗のみ教え)が、このまま唱和推進されて普及されていくと、どうなるのでしょうか。

 

《まとめ》

(1)『新しい領解文』(浄土真宗のみ教え)を拝読するときに、『二種深信』の「機の深信」の摂まりなきを窺うことができます。『二種深信』は、「機の深信」と「法の深信」の二種が一具となっています。「安心論題綱要」17ページにも、「二種深信は、一具であって前後起でもなく、二心並起でもない。また、信後も性得の機相は変わらぬから二種深信は初後一貫する」と述べられてあります。結局のところ、「機の深信」の摂まりがないということは、『二種深信』そのものの摂まりがないということであり、結果的に、『新しい領解文』(浄土真宗のみ教え)は、「浄土真宗としての体を成していない」ということです。

(2)いまだに、『新しい領解文』(浄土真宗のみ教え)を、「得度習礼」で暗誦させて、「得度式」で、『領解出言』として、唱和させていることは大きな問題です。早急に『今までの領解文』に戻すべきだと考えます。

(3)現在、本願寺総局は問題の論点を、新しい領解文の文言内容そのものから、勧学寮頭(勧学寮員を含む)が御消息発布の『許可』を出したことへと、宗務法規上での「手続き上の問題」に論点をすり変えようとしています。問題の本質の責任転嫁そのものです。

 

人権新時代

 関東大震災から一〇〇年を迎えた二〇二三年、ほとんど知られていなかった史実がいくつか話題を集めた。その中の一つに福田村事件がある。香川県の被差別部落出身の行商人一〇人(胎児を含む)が、千葉県の福田村(現野田市)と田中村(現柏市)の住人に虐殺された事件である。主にドキュメンタリー映画を撮ってきた森達也監督はあえて映画「福田村事件」として発表し、私もこの映画をみて事件を知った。

 震災直後、「朝鮮人が暴動を起こす」といった流言が広がり、軍隊や警察、自警団などが朝鮮人を暴行、殺害した。中国人や間違われた日本人も犠牲になったが、被害の全容は今も不明だ。多くの朝鮮人が虐殺されたことは知っていても、方言の異なる日本人が殺されていたことはほとんど知られていない。森監督は朝鮮人と疑われた被害者が被差別部落出身だったことに注目し、虐殺の背景に蔑視と差別という社会のゆがみがあったことに焦点を充てた。

 人間の尊厳と平等を求めて被差別部落出身者が「全国水平社」を起ち上げたのが、関東大震災前年の一九二二年だったことは単なる偶然ではない。被差別部落出身者への差別は当時、今では想像し難いほど社会に深く根を下ろしていたのだ。

 ネット社会という新時代を迎えた今、部落差別は匿名社会を隠れ蓑に、陰湿さを増して続いている。その現実と向き合うため西日本新聞は、全国水平社創立一〇〇年の二〇二二年から長期企画「人権新時代」に取り組み、二三年度の新聞協会賞を受賞した。「すべての人が尊重される社会をつくるために」。その思いを胸に、四〇年以上に渡って人権報道に力を入れてきた西日本新聞の伝統と文化が手にした新たな勲章だと思っている。
西日本新聞は一九八〇~八一年、長期企画「君よ太陽に語れ―差別と人権を考える」に取り組んだ。当時マスコミ界でタブー視されていた部落問題を真正面から取り上げ、結婚や教育現場での差別、行政や市民意識のひずみを描き出した。このキャンペーンは新聞協会賞を受賞し、高く評価されただけでなく、「人権は書いて守る」という姿勢を後輩記者たちに植え付けた。記者の心構えを示す「人権報道の基本」は改訂を繰り返し、今も定期的に記者研修会を開いている。

 私もその伝統と文化の中で育てられ、キャップ・デスクとしてさまざまな企画を手掛けた。一九九二年にシリーズ「事件報道の改革『福岡の実験』―容疑者の言い分掲載」を開始。容疑を否認している容疑者の主張を掲載する試みを全国に先駆けて行い、新聞協会賞を受けた。九八~九九年には「犯罪被害者の人権」に光を当て、二〇〇五年には犯罪少年の更生を考えるシリーズ連載「少年事件~更生と償い」に取り組んだ。すべて「君よ太陽に語れ」が原点だった。

 「人権新時代」の新聞協会賞受賞が決まった直後の昨年九月中旬、社会部長(当時)として「君よ太陽に語れ」を指揮し、人権報道の礎を築いた稲積謙次郎さんが八九歳で亡くなった。受賞の知らせを受けた稲積さんは「良かった」と語り、感無量の表情を残してお浄土に旅立ったという。合掌。

「浄土真宗と現代」(7)  

光明寺住職 傍示裕昭

「生きるのに、右往左往するのは当たり前です。経験がないのですから。」

コロナ禍以前に戻っていると言っても、先の見えない不透明な混沌とした時代状況は、何も変わりません。自分の人生も一緒で、先が見えない不安に押しつぶされそうになり、誰しも生きる気持ちが後ろ向きになることがあります。ただ、先のことを考えても、先のことは先のことでどうなるかわからない、まさに、なるようにしかならないのです。ふさぎ込んでばかりいても、落ち込んでばかりいても、嘆いてばかりいても、状況は悪くなる一方です。悪循環のスパイラルです。

そうなると、いよいよになってから、切羽詰まってからでは、どうしたら良いかを考える余裕もなくなり、SOSも発信出来なくなります。心がフリーズしてしまってからでは、手遅れになります。とりあえずは、目の前のことに集中することです。先のことは先のことです。その時はそのときです、その時になって考えればいいことです。

いま、こういうことが言えるのも実は、私がこういう体験をしたからです。9年前に坊守を病気で亡くし、お寺のこと、家庭のこと、子どもたちのこと、その他、全てのことを一人で背負い込んで1年4ヶ月余が過ぎた頃、ある日突然、「不眠症」に陥りました。夜寝ても約2時間で目が覚めるようになり、朝までうつらうつらする眠れぬ日々が1ヶ月以上続きました。

いつか、こういう状態は終わるだろうと楽観的に考えていましたが、終わるどころか、そのうち、身も心も疲れ切ってしまい、食欲も無くなりました。心療内科に通い、いろいろ薬も服用しましたが、睡眠薬を服用すると今度は、一日中眠くて眠くて起きていられなくなりました。そうこうしているうちに段々と気持ちが落ち込んでしまい、こころが「ひきこもり」状態になって、何をするにもその気力が湧かなくなってしまったのです。

どこかに逃げて行きたいと本気で思うようになったのですが、お寺や家族のことを考えれば逃げ出すわけにもいかず、鬱鬱とした気持ちでした。そうこう考えているうちに、誰かが亡くなれば、枕経、お通夜、お葬式と、いやがおうでもお参りに追われます。最初の頃は、重たい気持ちを引きずるようにしてお参りに出向き、30分の葬場勤行を気力を振り絞ってやっとの思いでお勤めして帰って来て、すぐに横になって休む生活を続けていました。しばらくの間、誰も死んでくれるなとも考えていました。

そう考えていても、死は向こうからやってきます。何度も何度も、何とも言えない重たい気持ちでお葬式を勤めているうちに、ある日、無心でお経を上げている自分にハッと気づきました。お経を上げている時間だけが、何も考えずに目の前のことに集中することが出来ていました。お経(佛説)の世界は、あの世(極楽浄土)のことを切々と説いてありますから、阿彌陀さまの世界に引っ張り込まれていたのです。あの世に往っていたのです。いまにして思えば、み佛さまの効能でしょうか。その時間だけは救われていたのです。

結果的に、重い気持ちを引きずり、いやいやながらに出向いていた報恩謝徳行のご縁によって、私は少しづつですが、み佛さまに癒やされていました。

お葬式の縁で、生死一如という人生の真実を知らされることによって、いま、私が「為すべきこと」を教えられたのです。

合掌

韓国への女子旅

傍示真生子

 

 私は先日、1泊2日で韓国に行ってきましたので、旅の記録をシェアしたいと思います。

韓国には何度か行ったことがありましたが、コロナ禍明けで久しぶりの海外だったので、ドキドキ・ワクワクでした。今回の旅の目的は3つ! 「食事」「買い物」「美容」(^_^)

1泊2日しかなかったので詰め込みました。

 

*1日目

 深夜便だったので、仁川空港到着が早朝4:00。仕事終わってからの飛行機だったので機内では爆睡。朝8時に狎鴎亭(アックジョン)駅で、別便で来た友人と合流し、近くのカフェでベーグルでのモーニングミール。行ってみたかったベーグル屋さんでした。(^_^)

 その後、美容皮膚科を予約していたので江南(カンナム)まで移動しました。カウンセリングしてもらって、お肌の管理をしてもらいました。これも念願だったので効果が出てくるのが楽しみです。化粧品や洋服のショッピングも楽しみました。韓国は安くてかわいい洋服やいろいろなコスメが沢山揃っています。ここで妹にお土産を買いました。

 夕方に明洞(ミョンドン)の西鉄ソラリアホテルにチェックインしてから、食べ歩きに出ました。韓国チキンやキンパ、スイーツもフルーツもたくさん食べました。(^_^)

 

*2日目

 ゆっくり休んで遅めのチェックアウトを済ませたあと、お昼ごはんは、友人お勧めの「タッカンマリ」を食べにいきました。タッカンマリとは、韓国語で「タッ=鶏」「ハンマリ=一羽」、直訳すると「鶏一羽」になります。ほぼ水炊きです。

 ただ、水炊きと大きく違うのは、唐辛子・にんにく・醤油・酢・カラシを混ぜ合わせて、「タテギ」と呼ばれる特製薬味タレにつけて食べる事です。これが絶品! ヘルシーだし身体にも良い。(^_^)

 食後のコーヒータイムで近くのカフェへ。タルトが美味しそうに見えたので、タルトまでいただきました。

 帰りの便は、夜便でしたが少し早めに高速バスで仁川空港に向かいました。大学時代に韓国に留学し、その後も仕事で現地に住んでいる友人が、空港までわざわざ会いに来てくれました。一緒に夜ご飯を食べて旧交を温めました。久しぶりに楽しいひとときでした。

 仁川空港発21:00の便で帰京(帰国)しました。弾丸旅行でしたが、充実した2日間でした。また、行ける日を楽しみに日々仕事を頑張りたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。                    合掌