浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

3月19日法話 「経験がないのですから」

「生きるのに、右往左往するのは当たり前です。経験がないのですから」

 コロナ禍の現在、先が見えない不安、恐怖に、時として、「生きる気持ちが萎える」こともあります。こういう時には、先のことをあまり深く考えない、「考えるという思考」は、どうしても気持ちが、内向きになります。場合によっては、「鬱(うつ)」のような状況にまで落ち込んでいきます。先のことを考えても、先のことは先のことでどうなるかわからない。まさに、なるようにしかならないのです。ふさぎ込んでばかりいても、落ち込んでばかりいても、嘆いてばかりいても、状況は悪くなる一方です。悪循環のスパイラルです。

 そうなると、いよいよになってから、切羽詰まってからでは、どうしたら良いかを考える余裕もなくなり、SOSも発信出来なくなります。心がフリーズしてしまってからでは、手遅れになります。とりあえずは、目の前のことに集中することです。

 先のことは先のことです。その時はそのときです、その時になって考えればいいことです。

 例えば、伴侶を亡くしたあと、亡くしたショックで、ずっと家に引きこもっていると気持ちが、次第に落ち込んでいきます。仕事がある人であれば、仕事に行ってくださいと勧めています。四十九日まで引きこもっていては、手遅れになることもあります。やる気が起こらないのはわかりますが、それかといって、ずっと何もしないわけにもいかないのです、のども渇きます、腹も減ります、眠くもなります。とにかく気持ちの切り替えが大事です。でなければ、目の前のことに集中することです。

 「いま、なさねばならぬことに集中する」ことによって気持ちの切り替えが、自然と出来ていきます。私の経験では何でもいいから、「好きなことに没頭する」ことです。例えば、映画が好きであれば、飽きるまで徹底して一日でも二日でも、ずっと見続けてください。寝食を忘れて、集中して見ていればそのうち疲れて、眠くもなるし、お腹も空いてきます。

 私の恩師は、「お寺に参ってきて、お経を聞いて、気持ちよくなって寝ている者がいたら、そのまま寝かせておけ、起こしちゃならぬ」と、おっしゃいました。「ご本堂で、み仏さまのふところに抱かれて、ほっとして安心して眠っているんだ。娑婆の悩みがあるものは、お寺に来ても、気持ちが落ち着かなくて眠れぬ」とも、おっしゃいました。

眠れることは幸せなことです。

 それでも、眠れないくらい悩んでいるのであれば、身体を動かして下さい。掃除でも洗濯でも、家事でもなんでもいいですから、いまの境遇を少しでも変えることによって、気持ちが変わっていきます。気持ちも、その時その時の、気の持ちようでいろいろと変化していきます。

 いまからの時節であれば、日ごと、週ごとに、気温も上がって来て、お花見には絶好の季節になります。親しい方を誘い、誘われて、さくら花を愛でる桜の名所に、青葉を愛でに、新緑の散歩に出かけられると、良い気分転換になります。

 結局、人生は何をしてても、どう生きてても、時が来れば、因縁相和合すれば、死も巡ってきます。

 「まあ、いろいろあったけど、いい人生だったと思って、お浄土に往生するか」、「最後の最後まで右往左往バタバタして、不安なまま人生を終わっていくか」

決めるのは、自分自身です。

合掌

 

SUBARU便り(2)

予告通り今回も仕事の話をさせて頂こうかと思います。
仕事の話といっても切り口は多々ありますが、やはり外せないのは工場実習かなと思います。
自動車業界に限らず、各メーカーの新入社員が避けては通れない試練、それが工場実習です。
今回は、実習を通した一夏の思い出話をさせて頂きます。

 

僕はちょうど夏真っ只中の8月から現場に配属されました。工場内に入ると、第一印象は「暑い」でした。
機械が溶接する工程だったのでそこは溶けそうな暑さです。クーラーがあると聞いていたので壊れているんじゃないかと思いました。夏の間の日中は常に35℃以上ありました。
仕事の服装は、長袖長ズボン、さらにその上から保護具を身に着けフル装備スタイル。部品が体のどこかに当たってもなるべくケガしないようにするためです。
立ってるだけでも暑いのに、3kgほどの部品を持って歩きながら治具に組み付けていく作業をひたすらやります。1日で歩く距離はトータルで20km以上ありました。
そんな環境下だから大学生活で鈍りきった僕の身体はすぐ悲鳴を上げます。慣れるまでは常に身体のどこかが痛い日々でした。
朝起きたときに、手が部品を持つ形に固まっていたときはさすがに笑いました。

 

実習3日目、早速山場を迎えます。1週間前までぬくぬくデスクワークしていた僕の体力が限界を迎えました。
2時間ほど休ませてもらっている間に感じた気が遠くなるような気持ちを今も覚えています。
これがあと数か月続くのかと。最後まで耐えられる気がしませんでした。

 

仕事の一番最初の壁はもちろん仕事内容を早く体に叩き込むことです。
1人が受け持つ工程に与えられた時間が決まっていて、時間を超過すると自分より後の工程に影響が出ます。
持ち出す部品を間違えたり、部品を治具にうまく取り付けられなかったり、それだけで大変なタイムロスです。
最初1か月は無駄な動きが多く、何度も迷惑をかけて怒られました。

 

そして次に迎える壁は体内時計の切り替えです。
勤務先の勤務形態は早番(早朝〜夕方)と遅番(夕方〜深夜)で分かれていて、24時間稼働していました。
1週間交代で早番遅番が切り替わるのですが、きついのは遅番→早番の切り替えです。
早番になると遅番のときに寝ていた時間に起床するようになるのですが、
体内時計がたった土日の1〜2日で切り替わるわけもなく、週明けの月曜が特にきつかった記憶があります。

 

ここまでで大変だったことを少々大袈裟に書きましたが苦労したのは最初だけで、実は実習2ヵ月目以降の記憶は今ではほとんどありません。
9月下旬になると気温も下がり始めるので体力的に楽になる上、
気づいたら身体がすっかり現場に適応していたので、頭を空にして仕事をしていました。
ただ痩せるのだけは変わりませんでした。1日中歩くのでひたすら痩せます。実習が終わる頃には実習前と比べて12kg痩せていました。本当です。
何をどれだけ食べても太らなかったので、それだけは良かったなと思います。

 

こんな調子で「早く終われ」と思いながらこなした実習も4か月ほどで終わりを迎えました。
書き終わってみれば思い出話よりも苦労自慢ぽくなりましたが、今思えば貴重な経験だったなと思います。

 

余談ですが、実習の間に頂いた給料は、全部使って中古のマニュアル車を買いました。

SUBARU便り(1)

光明寺門信徒の皆様こんにちは。長男の顕信です。

 

この度HPの更新を再開するそうで、私も寄稿するように頼まれた次第です。
テーマ決めに悩みましたが、まずは身の上話から始めさせてください。

 

今年の3月でスバルに入社して丸5年が経とうとしています。
なぜスバルに?というご質問は時折受けるので、この場で書かせて頂くと、(1)独自技術と個性が強い、(2)大学での研究内容が活かせそう、
(3)車業界に興味があった
大きくはこの3つで、あとはお盆はお寺の手伝いが必須なので長期休暇がある等、仕事面以外の制約もいくつかありました。

(1)については、各車メーカーごとに根強いファンはおられますが、ファンに呼称がある(俗にスバリストと呼ばれています)のは
スバルだけだったので、何が魅力なのか?という素朴な疑問から少しずつスバルのモノづくりに興味が湧きました。
入社してから知りましたが、海外にも同じように熱心なファンがいて「スビー」というらしいです。
そうやって国内外でファンを増やし続けた結果、就活当時はスバルの業績が右肩上がりの真っ只中だったので、勢いに惹かれたところもあります。
ちなみにここまでで書いた通り、最初から「大の車好き」というわけではなかったです。

 

スバルにご縁を頂いて会社に入ってからは部品の設計職をやらせて頂いています。大小様々な部品1つ1つに設計者がいて、それを組み合わせて1つの車にする、
車作りはそんなイメージで他の会社も同じだと思います。5年でできることも少しずつ増えてきましたが、相変わらず知らないことは毎日のように出てくるので勉強の日々です。

 

昨年レヴォーグという車がフルモデルチェンジ(簡単に言うとデザインを一新すること)を行いました。カーオブザイヤーを受賞するなど、幸先のよいスタートを切っています。
小さい部品ですが、私が初めて設計した部品も搭載され、微力ながらも開発に関わらせてもらいました。発売してすぐ公道試乗に行きましたが、スバルの車作りのコンセプトである
「安心と愉しさ」を体現しているような車だなと思います。魅力の多い車なのでスバルに興味を持って新しく購入頂いたお客様には特に、スバル車の良さを感じて頂けるといいなと思います。

 

初回はこのあたりで、次回も、同じく仕事関係で何か書かせて頂ければと思います。

正信念仏偈経本 刊行にあたり

正信念仏偈経本 刊行にあたり

2021年1月16日

 正信念仏偈(お正信偈)は、宗祖親鸞聖人が800年前に作詞され、蓮如上人が500年前に作曲された浄土真宗の代表的な歌(偈)です。それを私たちは500年以上にわたって唱え続けてきました。先達の方々が日常のお勤めとして朝なタなにお唱えしてきたことによって、阿弥陀如来のみ教えと宗祖親鸞聖人のお示しが、正統に伝えられてきた歴史があります。まさしく、お正信偈こそ、宗祖親鸞聖人ご自身のご安心、ご信心のお心が表わされたものであるといわれています。

 ところが現代は、時代の推移とともに、生活環境が大きく変化し、お仏壇が家庭に安置されなくなり、お経本に目を通すご縁が著しく少なくなっています。

 今こそ、『お正信偈を唱和する運動』を、あらたに進めなければなりません。たとえ浄土真宗の門信徒の方であっても、普段お寺にお参りするご縁の少ない方が宗教的な情況に接していただく機会は、お通夜やお葬儀、身近な方のご法事の場です。そのような場において参列者と共に、お正信偈を唱和することは浄土真宗の世界に、より具体的に出遇っていただく第一歩になると思います。

 そのような折に、私たち住職が持参して利用するのに便宜を図って、この経本を刊行いたしました。お正信偈を唱和する運動の一助となることを切に願い、発刊の言葉といたします。

令和3年(2021)1月

筑後伝道研究会々長

光明寺住職 傍示裕昭

 

筑後伝道研究会について

筑後伝道研究会について

                           2021年1月16日

 筑後伝道研究会は、昭和48年頃に、福岡教区の筑後地区の若手僧侶が集まって、久留米市光明寺前住職、傍示暁了師を講師に、声明の練習をする会として発足したものです。

 声明の練習をする傍ら、関係寺院の法要に出勤、また、会員相互の寺の恒例法要の参り合いなど、勤行実践を通じて研鎖をすることが、会の活動の中心でした。

 その後、声明の練習を継続しながら、松尾博仁師(当時·筑紫女学園短大教授)や小山一行師(筑紫女学園大学教授)を講師に迎えて、『欺異抄』や『浄土三部経』の聖典学習会を開催しました。また、上田義文師(当時·筑紫女学園短大学長)、信楽峻麿師(当時·龍谷大学教授)、稲城選慧和上(当時,本願寺勧学)、大村英昭師(当時·大阪大学教授)、宮城顗師(当時·九州大谷短期大学教授)等を招聘し、真宗教学についての集中講義をお願いするなど、活動の拡大を図って研鎖を続けた歴史があります。

 現在は、会員それぞれに、組内役職や地域社会の役職、また次の世代の新たな活動もあり、会の活動は休止状態ですが、このたび、会発足の原点を顧みて、現在の社会状況の中で、浄土真宗の伝統である『お正信偈』が読まれなく成りつつあることを憂い、一人でも多くの方に『お正信偈』に出会っていただくことを願い、法事やお通夜の席で、参列者と共に唱和するため、持

参するのに便宜を計って、筑後伝道研究会々長、傍示裕昭師と協議の上、この経本を制作いたしました。

 浄土真宗のみ教えが、現在まで正しく伝えられていることの大きな要因はこの『お正信偈』を大衆唱和したことにあると思います。いま、家庭にお仏壇が安置されなくなり、日常生活のなかで浄土真宗の習慣が消えかかっていることを思うと、『お正信偈を唱和する運動』は、あらためて展開すべき事であり、浄土真宗伝道の基本活動として欠くことのできないことであると思

います。

 それぞれのご住職方が、ご法事やお通夜の席に持参していただいて、参列者と共に唱和していただくための経本として利用していただくことを切に念願いたします。

                         令和3年(2021)1月

                         浄弘寺住職  下川弘暎

 

さだまさし特番(上)

2021.1.1.

【さだまさし特番(上)】

(テレQ)TVQ九州放送

報道スポーツ局長 傍示 文昭

 アフガニスタンで用水路建設や医療活動を続け、二〇十九年十二月四日に現地で武装集団に襲われて亡くなった中村哲医師(当時七三歳)の追悼の会が十一月二十三日、母校の九州大(福岡市)で開かれた。

 一周忌を前に、中村さんと共に活動してきた福岡市の非政府組織「ペシャワール会」が主催し、全国から約四百人が参列。シンガー・ソングライターさだまさしさん(六八)も登壇し、中村さんをたたえて作った楽曲「ひと粒の麦~Moment~」を披露した。

 さださんは、中村さんと直接の面識はない。ただ、お互い俠客の血を引く者として「常に意識してきた存在」だったという。

 中村さんの祖父は、北九州・若松港の石炭荷役請負業「玉井組」を率いた玉井金五郎。金五郎の長男、火野葦平の自伝的小説「花と龍」のモデルとして知られ、中村さんも生前、金五郎の生きざまに大きな影響を受けたと語っている。

 さださんの母方の曽祖父、岡本安太郎も明治時代、長崎港で港湾荷役を取り仕切った「岡本組」の元締。最盛期には沖仲仕五百人を束ね、任俠の大親分として地元で語り継がれている。

 中村さんの行動は「無私の精神」で知られるが、東日本大震災や豪雨などの被災地で支援ライブを続けるさださんの行動理念にも義と情の部分で共通するものがある。

 さださんは一方で、ルーツは似ていても実際の生きざまの違いに落胆したとも言う。

 「玉井金五郎の孫と岡本安太郎のひ孫があまりにも差がありすぎて、正直めげてしまった。のうのうと生きてきたなあと思ってね」。そして、わが身と照らし合わせながらたどり着いた答えが「自分にできることは何か」という原点回帰だったという。

 追悼の会であいさつした中村さんの長女秋子さん(四十)は「父は決して特別な思想、崇高な理念があったわけではなく、当たり前のことを当たり前にという人だった」と話した。さださんにとって「当たり前のことを当たり前に」できることは、中村さんに捧げる歌を作り、歌うことだった。

 かたや私は昨夏、新聞社から放送局に転籍した。放送人として何をなすべきか、半年かけて出した答えの一つがさださんの番組を作ることだった。

 素人プロデューサーのため「当たり前のことを当たり前に」とはいかないが、さださんや中村さんの生きざまに恥ずかしくない作品にしたいと思っている。

いざテレビの世界へ

2020.9.20

【いざテレビの世界へ】

TVQ九州放送 報道スポーツ局長

傍示 文昭

もの心ついたころには茶の間に白黒テレビが置かれていた。ただ、一家に一台の時代。 しかも茶の間には常に祖父が陣取っていた。チャンネルの主導権は祖父が握っている上、「テレビからは頭の悪くなる電波が出ている」が祖父の口癖だった。そんな祖父の前でアニメーションを見ることなど許されるはずもなく、時おり祖父が外出するすきを縫ってテレビにかじり付いた。

その祖父が病床に伏し、茶の間の「主」がいなくなったときは、不謹慎ながら「これで好きな時にテレビが見られる」と喜んだものだ。

幼い兄弟の興味は同じアニメであり、チャンネル争いをした記憶はほとんどない。やがて見たい番組の興味はお互いに少しずつ変わっていったが、そのころには応接間に二台目のテレビがあった。人気のアニメや青春ドラマ、歌謡曲、ギャグなど、小学校で盛り上がる話題は常にテレビが発信源だった。

まさにテレビ全盛の時代。一九五三(昭和二八)年の放送開始以来、誰もが容易に利用できる最も大衆的なメディアだった。草創期の五九年に生まれた私たちの年代は、テレビの恩恵を最も受けてきた世代と言えるのかもしれない。

還暦を過ぎ、そのテレビの世界で働くことになった。インターネットの普及に伴い、新聞同様、テレビの影響力も急速に低下していることは知っていたが、放送関係者となって突き付けられた現実は「想像以上」というのが率直な感想だ。

衛星放送やケーブルテレビの普及、デジタル化やワンセグ放送、オンデマンド放送の開始…。テレビの視聴方法も多様化し、とくに若い人たちの間では動画共有サイトや番組関連情報の検索などネットを利用した新たな形のテレビ視聴が一般化している。

それに伴って従来のテレビ放送に対する視聴習慣が弱まり、その結果、テレビCMの影響力も低下。広告収入が大きく落ち込んでいるのだ。そこにコロナ禍が追い打ちをかけ、視聴者だけでなく広告主の「テレビ離れ」も加速。放送事業収入に頼る経営構造を見直さざるを得ない状況に直面している。

さてさて、そこで何をやるのか。地方放送局に未来はあるのか。もの心ついたころからずっとお世話になってきたテレビへの恩返しも込めて、可能な限りあがいてみたいと思っている。

癒着と密着

2020.7.15

【癒着と密着】

TVQ九州放送・報道スポーツ局長

傍示 文昭

この原稿を書くのはなんとも気が重い。それでもジャーナリストであることを誇りとしている以上、避けて通るわけにはいかない。東京高検の黒川弘務検事長と産経新聞の記者二人、朝日新聞の社員(元記者)が緊急事態宣言中に賭け麻雀をしていた問題についてだ。批判は覚悟の上で「言い訳」ではなく「言い分」として書き記したいと思う。

法務省は黒川氏を訓告処分とし、黒川氏は自ら辞職した。朝日新聞社は社員を停職一か月、産経新聞は記者二人を出勤停止四週間の懲戒処分とした。黒川氏の処分の妥当性は置くとして、新聞二社の処分は同業者から見て妥当だと思っている。停職、出勤停止は単なる「自宅謹慎」のように見られがちだが、謹慎は給与と賞与の減額につながる。つまり減給処分もセットになった、極めて重い処分と受け止めている。

しかしながら、ネット世論の大半は「処分も対応も甘すぎる」である。外出自粛を呼びかけていた新聞社の記者が定年延長問題の渦中にいる検察ナンバー二と密会し、違法行為である賭け麻雀を繰り返し、送り迎えのハイヤーまで用意し、「週刊文春」に暴露されるまで検察幹部が賭け麻雀に興じていたこと自体も書かなかった、などなど。その批判は枚挙にいとまがない。処分に際し、新聞二社が三人の実名を公表しなかったことへの批判も強い。

ただ、私はこの三人を断罪することはできない。一連の行為は極めて不適切であり、猛省に値するのは言うまでもないが、黒川氏という時の人に、ここまで食い込んでいる記者がいたことに感服してしまったのも偽らざる心境だ。権力を持つ側が発表する内容を通り一遍に伝えるだけでは記者の仕事は成り立たない。読者にディープな情報も届けられない。私たち記者は相手の懐に飛び込むために、仕事を離れて酒を飲み、麻雀やゴルフもする。それもこれも権力の内側に潜む問題を探り、状況に応じて世に出すためだ。だから時には心が通じた相手を斬ることもある。

記者の心得は「密着すれど癒着せず」である。その線引きは難しく、今回のような行為が「癒着」と批判されるのは当然だが、この件をもって「密着」に腐心する記者の牙を抜いてしまうようなことがあってはならない。

清潔さや潔癖さだけではジャーナリズムは守れない。癒着と密着の違いをあらためてかみしめながら、相手の懐に飛び込む記者を育てるという気概だけは失ってはいけないと思っている。

中村哲医師の残したもの

2020.3.20 

【中村哲医師の残したもの】

西日本新聞社 取締役編集局長

傍示 文昭

戦乱と干ばつに苦しむアフガニスタンの支援活動に生涯を捧げ、昨年十二月に凶弾に倒れた中村哲医師=享年(七十三)=のお別れ会が一月二十五日、福岡市の西南学院大チャペルであった。

中村さんが現地代表を務めた福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」によると、全国から約五千人が参列し、会場に入りきれない人が周辺にあふれた。私も参列者の一人として中村さんの生涯と向き合い、中村さんをしのんだ。

中村さんは長年医療活動に従事し、近年は用水路を建設する事業に携わってきた。

なぜ用水路なのか。中村さんは言った。「診療所を一〇〇個つくるより、用水路を一本つくった方がみんなの健康に役立つと医者としては思いつきます」。

用水路を作ることは、医療行為そのものであると考えた中村さんは、白衣を脱いで自らショベルカーを操り、身を粉にして土木工事に従事した。その結果、茶褐色の大地に緑が戻り、難民化した人たちが故郷に帰還した。事業で潤った土地は東京ドーム約三五〇〇個分にあたる約一万六〇〇〇ヘクタール。約六十万人が恩恵を受けたとされる。

さらに中村さんが用水路建設とともに大切にしたのが、モスクとマドラサ(イスラム神学校)の建設だった。

信仰の拠点の整備は、精神を支える。モスクが完成したとき、現地の人たちは「解放された」と言ったという。

タリバン掃討作戦以降、米軍はモスクを攻撃対象としてきた。モスクの存在をネガティブに捉え、イスラムの信仰を否定的に扱った。

ムスリムであることが悪であるかのように扱われてきた中、新たなモスクが作られたことは彼らにとって精神の解放そのものだったといえるだろう。

中村さんの事業においては、まさに土木と信仰が一体化していたのだ。生前こうも語っている。「水が来たとき村の人はもちろん喜びましたけど、モスクが建つと聞いてもっと喜んだんですよ。イスラム教徒であることが悪いことであるかのように、一種のコンプレックスが(村を)支配していた。やっぱり『地元の人が元気がでるには』というのはありましたよね」

中村さんは敬けんなクリスチャンだったことで知られる。ただ、信仰的なバックグラウンドに凝り固まらず、本質的な部分で宗教の壁を超えて世のためになる働きをする。宗教によって戦争が起こっている中で、その教えが世界共通だということを身を持って表した中村さんの行動は、宗教に携われる者こそ学ぶべき本質のような気がしている。

■   ■

西日本新聞は、中村さんの意志を受け継ぎ、ペシャワール会の支援につなげるインターネットの特別サイト「一隅を照らす」を開設した。「一隅を照らす」は中村さんの座右の銘。「今いる場所で希望の灯をともす」という思いが込められている。サイトでは中村さんの足跡を紹介。パキスタンに赴く中村さんを本紙が初めて取り上げた一九八三年五月十八日付夕刊の記事をはじめ、連載や画像などを収録した。ぜひアクセスしてみてほしい。

「ワンチーム」は社会の縮図

2020.1.1

【「ワンチーム」は社会の縮図】

西日本新聞記者 傍示 文昭

 あちこちの街に桜のジャージーがあふれかえった。南アフリカの優勝で幕を閉じたラグビーワールドカップ(W杯)日本大会。予想以上の盛り上がりに火を付けたのは、紛れもなく史上初の決勝トーナメント進出を果たした日本代表の活躍だった。

 ただ、にわかラグビーファンの急増を含め、ここまで盛り上がった要因はそれだけではないだろう。八強入りという戦績以上に、多くの遺産を残してくれた歴史的大会として記憶に刻まれるだろうと思っている。

 大会前に熱っぽく語っていたリーチ・マイケル主将の言葉が記憶に残っている。「外国人も日本人も一緒になって結果を出す。ダイバーシティー(多様性)がすごいチームと思ってほしい。これからの日本(社会)はどんどんグローバルになる。いろいろ感じてほしい」

 日本代表三十一人のうち十五人が海外六ヶ国の出身・国籍。韓国出身の具智元選手はスクラムで雄たけびを上げてチームを鼓舞し、南アフリカ出身のピーター・ラブスカフニ選手はローマ字で覚えた「君が代」を歌い、母国に立ち向かった。

 かたや、海外出身選手の多さを批判する声は広がらなかった。野球やサッカーなど人気競技に比べても厳しい待遇の中、あらゆる犠牲のもとで過酷な練習に耐え、チームのために大柄な選手へのタックルを繰り返す「ワンチーム」。

 そうした献身的な姿が中継や報道を通して確実に伝わったからだろう。一丸となり困難を乗り切る「ワンチーム」の戦いぶりは、人口減で外国人労働者が増えるであろうこれからの日本社会の縮図であり、理想像ではないだろうか。

 昨今、自分と違う価値観を認めない不寛容さが確実に広がっている。在日韓国人をターゲットにしたヘイトスピーチはその典型だろう。書店には韓国や中国を中傷し、ナショナリズムをあおるような「嫌韓本」「嫌中本」が並ぶ。排他的空気が漂い始めた社会で、日本チームの活躍は絆やつながりといった日本人が大切にしてきた価値観を見つめ直し、国籍を超えて分かり合える可能性を感じ取ったからこそ共感が広がったのだと思う。

 試合が終われば敵味方は関係ないという「ノーサイド」の精神も浸透した。試合後に花道をつくってたたえ合い、日本文化を尊重した外国チームの選手が一列になって観客席にお辞儀する姿も印象的だった。「ワンチーム」と「ノーサイド」の精神の広がりが「違い」を認め合う社会の醸成につながることを期待したい。