浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

浄土真宗と現代(4)

光明寺住職 傍示裕昭

 

 宗祖親鸞聖人がお示しされた、浄土真宗の根本教義は、「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや」(歎異抄第十二条)です。

 今生において、念仏して自己を充足し、人生を荘厳してお浄土に参る。そしてすぐにこの世に還相回向して縁ある衆生を、南無阿弥陀仏で救うというお示しです。

 私の学生時代の恩師は、「お浄土に参らしてもろうて、じっと休んで眠ってしまうだけの南無阿弥陀仏の仏さんになるんじゃないんだ。(南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらわせるなりと。御文章五帖十三通・無上深甚章)

 この世に還って来て縁ある朋(とも)どもを、南無阿弥陀仏で救うという大きな仕事が待っているんだ。お浄土に参らしてもろうてこそ忙しくなるんだから、この世におる間は、ゆっくりと休んでおきなさい」と、仰っておられました。

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり。」(歎異抄第一条)

 浄土真宗のご利益は、「摂取不捨」です。阿弥陀さまの、『われにまかせよ必ず救う』の仰せを信じ、悲喜こもごもの縁あるたびにお念仏を申させていただきますが、私が称える一声一声のお念仏は、私が称えているお念仏であっても、本当はそうではないのです。

 先立って往った先達、先人たちが阿弥陀さまと一緒になって私の元に、私の口元にまで還って来て、私の口を借りて、私がお念仏を称えようと思うその前に、私の口元を動かしめて「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と、常に一緒にお浄土への人生の旅路を歩いているよと、いつでもどこでも見守りながら、導きながら、案じながら、お浄土までいつも一緒だよと。

 「南無阿弥陀仏の回向の

 恩徳広大不思議にて

 往相回向の利益には

 還相回向に回入せり」(正像末和讃)

 

 先立ったお父さん、お母さん、お祖父ちゃん、おばあちゃん、お子さん、奥さん、ご主人等々が、阿弥陀さまと一緒になって、南無阿弥陀仏のお念仏の仏さまとなって、私の口元にまで還って来られて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、つねに一緒に寄り添い、付き添い、背中を押して、元気を出していこうよと、誘(いざな)っておられます。

 その、聞こえてくる一声一声のお念仏を称えることによって、『われにまかせよ必ず救う』の「阿弥陀さまのおこころ」を聞かせていただき、私たちは安心して阿弥陀さまにお任せし、お浄土への人生行路を渡って行けるのです。

 阿弥陀さまのおこころが至り届いたお念仏を称えるひとときひととき、阿弥陀様さまの大きなお慈悲につつまれて、「いつ死んでも大丈夫・いつまで生きても大丈夫」と、生きる原動力となる他力の大信心が恵まれて来るのです。(続)         合掌

ホームページのリニューアル「牛歩のあゆみ」

「ずっと、お寺のホームページを見ていますが、全然内容が変わりませんね」の、ご門徒さんの一言で、また、スイッチが入りました。

 

平成30年11月3日に無事に円成できた、「光明寺本堂等新築落成慶讃法要」の最後の公式行事として、前門様のたってのご希望で、「話し合い法座」をさせていただきました。
大変な緊張もいたしましたが、前門様からご法座の最後に、『久しぶりで、元気の出るお話しを聞かせていただいて、嬉しく思っております』と、とても有り難く、わたくしのほうが、『元気が出るお言葉』を賜り感激いたしました。本当にありがたく、尊いご縁だったと振り返っております。
そして、この時の、この場の雰囲気を、おひとりでも多くの方にお伝えし、共有し、味わっていただきたく、一冊の本(希有大弘誓)にまとめました。
活字離れといわれる現代、おひとりでも多くの方に、この本を手にとっていただき、阿弥陀如来のみ教え、宗祖親鸞聖人のお示しが、広く伝わっていくことを心から願ってやみません。ご一読いただければ、誠に幸甚の至りですと結んで、昨年は、「話し合い法座」の内容を御本にまとめていました。

 

昨年1月初旬から取りかかりましたが、途中、コロナ禍で緊急事態宣言が発出された影響もあり、印刷会社の社員さんが半分、自宅待機になったりして校正が遅れて、結局、刊行出来たのが7月に入ってからでした。DVDからのテープ起こしで、ひらがなから仏教用語を含めた漢字に直していくのに結構、時間をとられました。法務や家事を行いながらの出版になりました。
この間、ホームページのことはすっかり忘れておりまして、コロナ禍のなかで頻繁に覗いてあった、多くのご門徒さんに多大なご迷惑をおかけしたと思っております。
コロナが、少し落ち着いた秋口ぐらいから、いろいろなご相談に来られる方も増えて、その何気ない会話の中で言われたのが冒頭の、全然内容が変わらない、要するに「更新されていないホームページ」の話しでした。

 

お寺の法務、家事、用務、子育て等を行いながら、リニューアルとして、「新ホームページ」を、牛歩のあゆみで再スタートして行きます。宜しくお願いいたします。

合掌

法話「何をやってもうまくいかない」

何をやってもうまくいかない。

まさか、こんなことになろうとは。

生きていく居場所がない。

コロナ禍になって、ますます聞かれる言葉です。

 

私たちは、この世に生を受ける時、まずオギャーと発声して生まれてきますが、その第一声を「慟哭の叫びだ」と言ったのは英国の作家、シェークスピアです。

お釈迦さまも、「人生は苦である」と、はっきりと仰られています。

 

生まれて、ものごころついた時から、私たちは死ぬまで「葛藤の連続」です。親子の葛藤 家族の葛藤 学校での葛藤 会社での葛藤 社会との葛藤、そして生きる上での葛藤。

ときどき、ふと、安らぐ世界はないものかと苦悩しますが、この世にはありません。無常の世界だからです。

新興宗教に入信する人たちの典型的なパターンとして、「貧困 病気 争い」が言われていますが、こういう事は、誰にでも、いつでも、どこででも起こることです。入信すると、仲間うちで、みんなから「おかえりなさい!」って、あたたかい言葉をかけられて、とても歓待されるそうです。人は、ぬくもりのある世界に誘(いざな)われます。

 

ただ、人の世には、絶対の世界はありません。人の世は、相対の世界です。生きていることそのままに「死」が内包されているように、どの世界にも、何事にも、『表と裏』があります。

 

寒い日にお風呂に入って「極楽、極楽」と、熱い湯に満足している時はいいのですが、

30分も入っていたら、湯舟は地獄に変わります。安らいだと思ったその瞬間に、一時の安らぎが瓦解することもあるのです。

結婚して、愛していると毎日言っていた時もあれば、その愛がいつしか、憎しみに変わることもあります。子どもを授かったと飛び上がって喜んだ時もあれば、のちに、成長した我が子から苦しめられ、場合によっては殺されることもあります。極端な話ですが、人をひとり殺めたら殺人者ですが、千人殺したら英雄だと叫んだ独裁者もいます。

 

人生、何が幸せで、何が不幸せなのか、何が善で、何が悪なのか、よくわかりません。

ただ、歳を重ねてきて、この歳になって、ようやくわかり得たことは、「人生は、何事も自分の思ひ通りにはいかない」ということです。

 

「人生、いつどこで、どうなるかわからない なるようにしかならない」 と、覚悟を持って今日を生きていくことが大切です。

 

「まさか、こんなことになろうとは」

「まさか、こんなことになろうとは」

コロナ禍で、よく聞かれる言葉になりました。

 自分が今いる立場や状況に、何かしらの変化が生じたゆえに出る言葉です。疫病が流行ることによって、ある意味、「死を身近に感じる」ようになったのは私だけでしょうか。ただ、太平洋戦争を経験された方は、「戦時中、食料難で何も食べるものがなくて、自分を含めて、子どもたちの病死や餓死におびえていたことを思えば、コロナぐらいで、へこたれてはおれません」とおっしゃっておられます。元気をいただく言葉です。

 

昔から、人生には上り坂、下り坂、そして「まさか」があると言われますが、今はまさにコロナ禍で、毎日がまさか、まさかの連続です。感染者や重症者、そして死者が増えることによって、その「まさかが、より鮮明に見えていると思います。

「人生、いつどこでどうなるかわからない」ことが、自分にとってはコロナ禍で、以前にも増して、より深く感じられているのかもしれません。

 

解剖学者の養老孟司先生は、「いつ自分がどのように死ぬものかはわからない。そういう意味じゃ人生は不安だらけです。ただ、人生は、そういうものです。不安はあって当たり前です。あって当たり前の不安と、どのように付き合っていくかを心得ていくのが、成熟するということです。今の人は不安を消そうとするけど、不安は消えません。人生はそういうものです。あるものはしょうがない、不安と折り合わないといけない。」と、おっしゃっておられます。

5歳の誕生日前にお父さんを亡くされてからは、「それが人生最初の記憶だから、私の人生は死から始まっている。だから、死から逆算して人生を想うのは、ほとんど日常化している」と、話されています。(NHKBS番組から)

 

また、iPhoneで有名なアップル社の共同設立者の1人である、スティーブ・ジョブスさんが亡くなる6年前に、母校のスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは有名です。若いときから座禅を組み、仏教に興味を抱いていたジョブスさんは、このときすでにガンを発病していました。

スピーチの中で、自分が17才の時に読んだ本の言葉を紹介しています。「毎日、これが人生最後の日だと思って生きてみなさい。そうすればいつかそれが正しいとわかる日がくるだろう」と。

 

そして、昨年9月6日に88歳で亡くなられた上智大学名誉教授「アルフォンス・デーケン」先生は、死の恐怖や死別の悲嘆といった人生の重いテーマを、時にはユーモアを交えながら説いておられました。

「死の学びは深い生につながる」との信念があり、「死の哲学」から「死の準備教育」と進化していった生死を見据えた学問は、「死生学」の名前で、いまもなお深化し続けています。

「死のタブー」に風穴をあけ、死を遠ざけてきた昔からの風潮に変化をもたらし、自らの終末期や死について学び、話し合える雰囲気を作り出してこられました。「死を遠ざければ、死は受け入れにくくなる」と語られ、「人生は喪失体験の連続です」と書かれています。

 

生老病死(生まれて老いて病んで死んでいく)の人生に誰もが、いくらかなりとも抗いますが、どうにもなりません。結局は、すべてを受け入れていくしかありません。

 

お釈迦さまは、「身自當之 無有代者」(私は私であって、私に代わる者はいない)と、おっしゃっておられます。

鎌倉食べ歩き散策

こんにちは。

ご無沙汰しております。

長女のまおこです。

今日は久しぶりに父から投稿を依頼されたので先日のお休みのことを書こうと思います。

先日久しぶりに鎌倉へ行ってきました。少し涼しくなったので海の方もいいなと思い、計画しましたがその日はちょうど真夏のような暑さで最高気温が28度でした。天気に恵まれるのは有り難いことですが。

 

今回は鎌倉の小町通りで食べ歩きをすることがメインだったので沢山食べました!鎌倉まで片道約1時間ほどなので着く頃にはお腹ペコペコでした(笑)

 

とりあえずは腹ごしらえということで「鎌倉和鮮」というお店でランチに海鮮丼を食べました。事前に調べていたお店で、カウンター10席ほどのこじんまりしたお店でしたがちょうど席が空き入ることができました。鎌倉名物の生しらすも追加して豪華にいただきました。お魚も新鮮でとっても美味しかったです。

その後は「夢見屋」というお店のお団子や、「まこちゃん」というお店の唐揚げを食べ歩きしました。

15時頃には「こまち茶屋」というカフェで休憩しました。本当はわらび餅を食べる予定だったのですが、涼むために今回はかき氷をいただきました。

紫陽花色に色付されている氷で目で見て楽しめるかき氷にテンションが上がりました。シロップを選べるので私はレモンと白桃をチョイスしてみました。味変しながら楽しめるので最後まで飽きずにいただけました。

 

その後は江ノ電に乗って由比ヶ浜に行きました。

今年初の海だったのですが、やっぱり海には癒やされました。ただ大量発生していた鳥達に警戒心でいっぱいでした。食べ物を上から狙って容赦なく持っていってました。私は食べ物は持っていなかったのですが鳥が何より苦手なので10分ほどで退散しました。(笑)

ただ海沿いを散歩するだけでリフレッシュできて気持ちよかったです。

普段都心で働き、生活しているのでたまに都心から離れ、ゆったりした空気に触れると心が落ち着く気がします。

 

束の間の休日でしたが美味しいものを沢山食べれて遊べて最高のお休みでした!

 

寒暖差が激しい季節なのでお身体大切にお過ごしください。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

浄土真宗と現代(3)

光明寺住職 傍示裕昭

いつの時代でも、いかなる社会状況でもそうですが、「み教えを伝える」ことに、皆がそれぞれに努力しています。まして、いまのコロナ禍の状況では、「伝えることから伝わること」に、智慧を絞らねばなりません。

時代社会の趨勢を鑑みる時、宗門や、寺院社会はいま、その大きな時代の潮流にもまれながら、「み教えを伝えること、そして、み教えが伝わること」の岐路に立っています。

デジタル化社会のなかで、過度な情報に振り回されて自分を見失い、何を支えに生きればよいのか。みんながみんな、人生の「道標(みちしるべ)」を見失っています。

さらに、「仏教離れ」「お寺離れ」といわれる言葉に代表されるように、「ご法事はしない」「お葬式は簡単に家族葬や一日葬」「俗名のままで納骨」と、教義、儀礼等を含めた「仏事の無用化」が加速度的に進んでいます。

いまこそ今一度、原点に立ち返って、「お経を上げておつとめをする」ことの意味を、みんなが確かめる時だと感じています。

阿弥陀さまの前で、お経を上げておつとめするということは、阿弥陀さまからの喚(よ)び声、亡き人からの願いに出遇うご縁を賜るということです。私たちのご先祖お一人おひとりは、その喚び声や願いに出遇わせていただく時間や場をとても大切にしてきた永い歴史があります。

それは、何が起こるかわからない「まさかの時代」と言われるこの世の中で、何をしでかすかわからない自分自身にとって、人生の本当の依りどころは何かを確かめずにはおれない聞法の歴史、つまり、み教えに学んできた「お聴聞の営み」があります。

仏法の世界は、「意味の世界」を説き示し、世俗の世界は、「価値の世界」を追い求めて止みません。

現世を生きるうえにおいては、片方だけではなくて、両方を見る眼が大切です。それは平衡感覚とも言えましょう。

意味の世界とは、「かけがえの無さ」です。私という人間存在は、この世に一人だけです。自分と同じ人間は誰一人としていません。このかけがえの無さの眼差しが、「ほとけさまの眼差し」です。逆に、世俗における私たちの眼差しは、「損か得か、善いか悪いか、役に立つか立たないか」です。これでは自分中心の価値観のみに生きてしまい、場合によっては、生きている意味や存在価値が否定されます。ここには安心(あんじん)はありません。

「みほとけさまの眼差し」を感じる時こそがお仏事の場です。阿弥陀さまの世界に向かい合い、阿弥陀さまからの喚び声、亡き人からの願いを感じる瞬間、そのひととき、ひとときです。

私たちの人生にはこういう時間が必要なのです。お仏事の場で、亡き人を案じてお念仏申すひととき、実は亡き人から案じてもらっている自分に気づかせていただくことがとても大事なことです。私たちは願われて、「生かされて生きるいのち」を生きているのです。

お念仏 南無阿弥陀仏は、『いつも一緒にいますよ』の、阿弥陀さまからの心強い喚び声です。

「われとなえ、われ聞くなれど南無阿弥陀、つれていくぞの親の喚び声」

宗祖親鸞聖人が、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄)といわれた「まこと」の意味は、お念仏こそ、『生の依るところ、死の帰するところ』という意味にほかならないのです。

                                         (続)  合掌

「まち・公園・人がつながる賑わいづくりプロジェクト」

光明寺門徒 髙橋米彦

久留米市に所在する『高橋株式会社』で事業を営んでおります。地元では、石橋文化センターの向かい側にあるスポガ(旧スポーツガーデン)とか、スポーツクラブのエスタと言った方がわかる方が多いかもしれません。

スポガは、昭和40年に開業したレジャースポーツ施設で、ボウリング場やアイススケート場、バッティングセンターなどを有しており、子供からご年配の方まで多くの地域の皆さまにご利用いただいております。エスタは、昭和62年に開業した地域初のインドアテニス設備とジムを有するスポーツクラブで、こちらも多くのテニスファンにご利用いただいています。

光明寺さまとは、祖父の代から門徒としてお世話になっており、今年発足した仏教壮年会の会長の役を拝命することとなりまして、益々仏道をしっかりと歩んでいかねばならないと覚悟しているところです。とは言っても、仕事をしながら仏道を磨くと言うのは困難極まりますので、いかに日常の中に仏道を取り込めるかと考えて、まずは毎月1日朝6時のお朝事法座への参加から始めております。これからも、生活の中で自然と仏様のみ教えを体得できる機会を作り、楽しみながら日々を充実させていきたいと思っております。

さて話は変わりますが、久留米市が昨年10月に公募した「中央公園官民連携魅力創出事業」に応募させていただき、書類選考及び提案発表を経て、今年の3月に採択いただきました。これは2017年の都市公園法の改正により民間と連携して公園を使った賑わいづくりを推進する流れを受けた国としての取り組みの一つです。

全国でこのような仕組みを活用して賑わいを作っている事例が出てきております。久留米市に採択されたこの事業では、中央公園がそもそも持っている豊かな自然と市民の健康をサポートする公園としての機能を更に活かすとともに、市民のみなさまや利用する皆様が楽しみ、学び、繋がれる場所としてカフェとレクレーションスタジオの設置を通して様々なイベントを行う予定です。

施設の周辺には4つの広場を設けて、屋外で、ヨガなどのエクササイズを行ったり、久留米市周辺の生産者によるマルシェを企画したり、出店やキッチンカーで食のイベントを開催するなど、地域に賑わいを作る様々な取り組みを行ってまいります。地元の皆様との繋がりを作る活動も大切にしたいと思います。敷地内で花を植えたり、地元における防災についての学びの場を提供したり、季節の地域の催し事など、イベントの準備も地元の皆さんと一緒に取り組んで、隣の人の顔が見えるコミュニティづくりも積極的に行っていきたいと思っています。

市民の皆さま、利用していただける皆さまが来場していただけるだけではなく、自ら主体となって参加することで、より健康になり、より充実した時間を過ごせる、そんな施設を目指して精進して参りたいと思います。偉そうなことを言っておりますが、まだまだ構想でしかありません。全てはこれからですので、温かい目で見守っていただけると幸いです。

合掌

 

「病児保育のインフラを地域に」

光明寺門徒 平木洋二

 皆様、初めまして。私は、久留米市で食品向けの包装資材の販売、シールや紙箱の印刷を行っている『丸信』という会社を経営しております。

創業者の祖父、平木元次は、浄土真宗を説かれた親鸞聖人様を篤く信仰しており、光明寺様の門徒としても熱心に活動し、毎年1月の御本山の御正忌報恩講には欠かさずお参りし、お聴聞していたようです。弊社の現在の本社(久留米市山川市ノ上町)の起工式には、先代のご院家さまでなく、あえて当時まだ、二十代だった後継者の傍示裕昭様(現在のご住職)に依頼し、起工式を「仏式」にて執り行ったと聞いております。

さて、三年前より弊社では、企業主導型の保育園を運営しております。二つの大きな特徴をもつ園で、一つは外国人の先生が常駐しており、英語での保育を行っております。

もう一つの特長が「病児保育」です。通常の保育園では、お子さんに37度5分以上の発熱があると、その日は預かることができません。途中で発熱した場合も、親御さんに連絡が入り、仕事を早退してお迎えに来てもらわねばなりません。通常それは、お母さんの役目となります。この為、企業側からすると小さなお子さんのいる女性に重要な仕事を任せにくくなり、簡単な事務やパート職となる場合が多いのだと思います。

また、近年では離婚率の高まりからシングルマザーとなられる方が多いのですが、上記の理由で非正規雇用となる場合も少なくありません。この豊かなはずの日本で子供の7人に1人は貧困状態にあると言われています。貧困は遠いアジアやアフリカの話ではないのです。

弊社では、久留米市で、このシングルマザーの貧困問題に取り組むNPOさんを継続支援させて頂いておりました。また社内にも30名以上のシングルマザーが働いていて、如何に仕事と子育ての両立が大変なのかを知ることになりました。

この問題を知るにつけ、この町に病児保育(看護師が常駐し、病気をしたお子さんをお預かりするサービス)のインフラがあれば、問題の解決に繋がると思うようになりました。久留米市にも街中の大病院には病児保育可能な施設がありますが、事前予約が必要であったり、利用時間や場所や預かれる子供さんの数などの制約も多く、気軽に利用できる訳ではありません。

「それなら自社でやろう」、そう思ったのですが、当時は年間5000万~6000万円の企業負担が必要と言われ一度は断念したのですが、安倍政権に変わり、この問題を取り上げていただき、補助金がつくようになり、我々でも運営が可能になりました。

開設には膨大な申請書類や手続きが必要でしたが、なんとか3年前に開園にこぎつけました。当初は園児が集まらず、毎月大きな赤字を出し続け、後悔しかけましたが、やはり、「英語教育」と「病児保育」はじわじわと人気がでて、今では定員に達し、新規の入園をお断りしている状態です。保護者の皆さんから「園があるから安心して働ける」「子供が流暢な英語を話すようになった」との声を沢山頂き、やって良かったと心から思っております。

私どものような中小企業1社でできることは限られています。しかし我々にできたのですから、他の地域や企業様でもきっとできるはずです。先日、久留米市津福今町にも病児保育可能な保育園ができ情報交換させて頂きました。我々も必要とされればこれまでの経験はお伝えするつもりです。そして、安心して子育てできる街になれば、きっと子供を産もうという気になる方が増え、他の地域から移住される方も増えるでしょう。

これから、日本が確実に直面する急激な少子高齢化。まさに、この喫緊の課題を地域が一体となって解決せねば限界集落化は益々加速します。個人にとっても企業にとっても他人事ではないと思うのです。

合掌

ある中国人歌手の死

 中国・上海出身で、日本を拠点に両国を行き来しながら活動していた歌手のamin(アミン)さんが七月二九日、四八歳の若さで亡くなった。死因はがん。突然の訃報に驚き、早過ぎる死を悼みながら彼女との交流を振り返っている。

 知り合ったのは二〇一〇年春。彼女は故郷で開かれる上海万博の応援ソング「海を越えるバトン」を歌っていた。万博で行われる日中友好コンサートに同行する前にインタビューした。その澄んだ歌声と誠実な人柄に惚れ、一気に親しくなった。気負うことなく「歌で日中の懸け橋になりたい」と語る笑顔が素敵だった。

 アミンさんの本名は巫慧敏(ウー・ホイミン)。お父さんは作曲家、お姉さんは二胡奏者のウェイウェイ・ウーさんという音楽一家に育ち、一三歳でアイドル歌手としてデビュー。透明感あふれる歌声で「天才少女歌手」と呼ばれた。アミンは中国語で「ミンちゃん」の意味。幼いころからの愛称を芸名にした。

 一九歳のとき、親しみを感じていた日本の言葉と文化を学ぶため来日。「アイドルではなく、歌手としてもっと活動の場を広げたい」。そんな思いが日本を拠点にする決断につながったという。

 〇三年、サントリーウーロン茶のCMソング「大きな河と小さな恋」が二〇万枚を超すヒットとなり、日本でも注目された。〇五年の愛知万博では松任谷由実さんらとユニットを組んでテーマソングを歌った。このユニットはNHK紅白歌合戦に選ばれ、彼女は中国本土出身として初の出場歌手となった。

 その後もNHKの中国語講座に出演したり、上海のテレビに出演して日本の唱歌を日本語で歌ったりしながら双方の文化を発信。福岡市在住の中国人男性と結婚し、活動拠点を福岡に移してから一層親しくなり、食事をともにしたり、博多で単独ライブを企画したりする関係だった。そんな交流の中で特に印象に残っているのは「歌で日中の懸け橋になる」という決意を固めたきっかけだった。

 「生まれ育った中国と大好きな日本をつなぐ懸け橋になりたいとずっと思ってきましたが、決定的になったのは〇五年春、中国全土で巻き起こった反日デモです。信じられなかった。でも現実として受け入れなければならない。私にできることは歌うこと。歌でメッセージを伝え、喜びや悲しみをハーモニーで包み込み、心の距離を近づける役割を担えたら、お互いに共感できるはずだと思ったんです」

 三年前に離婚し、再び拠点を東京に移してからは音信が途切れ、闘病生活のことは全く知らなった。共通の友人によると、離婚後、卵巣がんが発覚。手術後いったんは快方に向かったが、がんの転移が見つかり、最期は上海から呼び寄せた両親と姉に見守られて息を引き取ったという。

 元気だったころの笑顔を思い出せば、日本語で包み込むように歌う「故郷」が聞こえる。日本の唱歌の世界を深く理解し、表現した中国人歌手だった。

                                      (TVQ九州放送・傍示文昭)

さだまさし特番(下)

 シンガー・ソングライターさだまさしさんは、六九歳になった今も精力的に歌い続けている。その源流を探るドキュメンタリー番組「さだまさし『原点』への旅」(六月五日、テレビ東京系列六局ネットで放送)を制作した。番宣で使ったサブタイトルは「失われたいのちを歌え―歌手さだまさし・魂の現在地」。番組の軸に据えたテーマは「命」であり、さださんの創作曲の中心に「挽歌」があることを指摘した。

 挽歌とは「葬送のとき、ひつぎを載せた車をひく人たちがうたう歌。また、人の死を悼んで作る詩歌」(大辞泉)を指す。「哀悼歌」「鎮魂歌」とも言う。一九八〇年、映画「二百三高地」の主題歌として発表した「防人の詩」でいわれなき中傷にさらされたさださんを救ったのは、文学界の重鎮、山本健吉さん(一九〇七~八八)の言葉だった。

 「君はいなくなった人を歌うことに長けている。これは挽歌といって日本の詩歌の伝統であって神髄だ。何を言われてもやり続けなさい」。若き日、さださんの出世作となった「精霊流し」もまさに、二〇歳の若さで急逝した従兄への挽歌だった。

番組では、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師に捧げた挽歌「ひと粒の麦」が生まれた背景にも山本さんの言葉があったことを伝えた。

 「実際お目にかかったこともない中村哲先生を歌うのは最初せんえつだなって思ったんですが、山本健吉の言葉を思い出しましてね。叱られるかもしれないけど勝手に僕は残しておこうと、自分の中に中村哲を刻もうと思ったんです」。ペシャワール会の幹部や中村さんの遺族はこの歌に感銘を受け、一周忌に合わせて母校の九州大学で開いた「偲ぶ会」にさださんを招待した。

 「ああやっぱり歌って良かったなと山本健吉に感謝しましたね。これからも自分が感銘したこと、感動したこと、特に命に関わるものはやっぱり訴えていこうと今も思っています」

 番組の後半は、さださんが今もっとも注目しているという俳人で、山本さんの最初の妻、石橋秀野さん(一九一九~四七)に焦点を当てた。辞世の句は「蝉時雨 子は担送車に 追ひつけず」。結核で亡くなる二カ月前、ストレッチャーで運ばれる秀野さんが泣きながら追いかける五歳の娘を見た直後に詠んだ句だという。「もの作りにかける執念は忘れたくないなと秀野に教わりますね」。さださんは命を賭して生み出された俳句の凄みを番組でも語り続けた。

 命を歌う大切さを教えてくれた山本健吉さんと、命を削りながら俳人としての高みに達した石橋秀野さん。二人が与えてくれた「原点」は今後、さださんの作品にどんな風に生きてくるのか。さださんが歌い続ける限り、その生きざまを今後も追いかけたいと思っている。

                                      (TVQ九州放送・傍示文昭)