浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

ジャーナリストの眼力

「聞く姿勢」の欠如

 そもそも聞く姿勢も、謝る姿勢も持ち合わせていない。長い水俣病の歴史の中で、環境省に一貫して欠けていたものが一瞬にしてあらわになったなという印象だった。

 五月一日、熊本県水俣市であった伊藤信太郎環境相と水俣病の患者・被害者団体の懇談で、環境省側は一団体の発言時間を三分と設定。時間が来ると一方的にマイクの音量を絞り発言を遮断した。この時の映像を見るたびに切なくなる。
昨年春に痛みに苦しみながら亡くなった妻の無念さを訴えている途中に、マイクを切られた水俣病患者連合副会長の松崎重光さん(八二)は、顔を上げ悲しげな表情で立ちつくした。 「皆さまのお話を伺える重要な機会と考えている」。懇談の冒頭に、こうあいさつした伊藤大臣はマイクが切られても素知らぬ顔。帰り際に参加者から詰め寄られると、逃げるように言い放った。「マイクを切ったこと、ちょっと認識していません」。水俣まで何をしに行ったのか。西日本新聞東京報道部の記者として環境庁(当時)を担当していた三〇年前を思い出し、あのころと何も変わっていないことを痛感した。

 一九五六年五月一日の水俣病公式確認以来、有毒なメチル水銀を海に流し続けた原因企業チッソとそれを放置した政府など行政の責任を問う被害者に対し、国は救済範囲をできるだけ狭くしようとしてきた。司法がその姿勢をただし、新たな制度が継ぎ足されるという歴史に終止符を打つため一九九四年、時の村山富市政権は動いた。 「患者」とは認定しないが、司法救済を求める患者を「被害者」と位置付けて一時金を支払うという政治決着を図った。政治家や官僚の言動を丹念に追いながら連日、記事を書き続けた。

 「水俣病は環境庁の原点」。被害者と向き合う担当職員もそう公言していたが、本音は「水俣病さえ解決できない弱小官庁」の汚名を返上するのに躍起だった。行政の責任を棚上げして幕引きを図ろうという政治決着は、聞く姿勢も謝る姿勢もない環境庁にとっても都合の良い解決策だった。ただ、生まれた年や暮らした場所による「線引き」などで対象から漏れる人が相次ぎ、全面的な解決にはならず今に至っている。被害者と向き合おうとせず、「現地でつるしあげられるのは嫌だな」という本音が透けて見えた姿勢は、環境庁から環境省に格上げされても何も変わっていなかったということだろう。

 水俣での懇談で環境省は、一団体の持ち時間を三分とする運用を二〇一七年から続けていた。議論が紛糾して時間が押し、どうしようもなくなった時にはマイクを切る措置も決まっていたが、実際に切ったことはなかったという。今年から「三分を超えたら音量を落として発言を遮断する」という運用に変わったが、懇談参加者には事前に伝えられていなかった。つまり、聞く姿勢をさらに後退させた結果、起こるべくして起きた失態だったのだ。
伊藤大臣はその後、再び水俣に出向いて無礼な対応を直接謝罪した。心からの「謝罪」なのかどうか。「意見は聞いた」というアリバイ作りのために懇談の場を設けていたことが明らかになった今、患者・被害者との間に新たに生まれた溝は、言葉だけでは決して埋まらない。