光明寺住職 傍示裕昭
『自分で何とかしようというのではなくて、はからずも私の口から阿弥陀様のおこころが言葉となって出てくる、ありがたくそれを自分でも聞くと。その前段階として、他のご家族や周りの方々のお念仏が耳から入っていたのではないかと。入ってきたお念仏が、今度は私の口から出ていく、そんな感じをいたしております。
私は歳をとりまして、夜中に目が覚めてなかなか寝付けないときがあります。そんな時に、南無阿弥陀仏と申しまして、睡眠薬代わりになったと思いますが、そういう意味ではほとんど役にたちません。
そのために称えるお念仏ではありませんので、思いをあらためまして逆に、お念仏する時間をあたえられたんだなと。
起きていますと、あれこれ目に入ったり、耳に入ったりして、お念仏が出にくいんですけれども、夜中に真っ暗な中でいると、お念仏する何の妨げもない。これは良い機会をいただいたと思って、お念仏をそういう風に味わえば聖道門のお念仏とか、自力のお念仏とか、そういう問題にならない。
「ありがたく申すだけ聞く」と、そんなことの感想を申させていただいて挨拶といたします。ありがとうございます。』
前門様が、発言なさっておられたこの時は、本堂内が水を打ったようにシーンと静まりかえり、皆が、前門様の一言一言を耳を澄ませて聞き入っていて、心の琴線に触れるような、言葉では言い表せない深い感動を覚えたのを、今でも鮮明に覚えています。
この思いがけないお言葉以来、私も夜中に目が覚めて寝付けない時に、
「前門様も、ひょっとして今の時間に、お念仏をお称えされておられるかもしれない」と思うと、不思議な「安らぎの御心」をいただく気持ちです。本当に有り難いご縁でした。
私たちが手を合わせ、お称えする南無阿弥陀仏を、「お名号」といいます。お名号とは阿弥陀如来さまの「救いの力」であり、如来様が現に今ここに、はたらき(用)続けてくださっている「われにまかせよ、必ず救う」という「名告り」です。ひとたびお念仏申す時、その名告りを味わうことによって、お育てに出遇っているのです。
「彌陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり」
(親鸞聖人85歳 夢告讃) (正像末浄土和讃)
浄土真宗のご利益は、「摂取不捨」です。
摂取不捨には、ご左訓(ご註釈)が付けられてあり、
「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追わえとるなり。
摂はをさめとる。取は迎えとる」の、(用)はたらきと、親鸞聖人は理解されて、
(一)私を救いとると誓われた阿弥陀さま
(二)称えるお念仏に育てられる人生行路
と、阿弥陀さまからの「お念仏の一本道」を、【人生の路標】といただかれて、ただひたすらに浄土往生への思いを馳せて生きぬかれた90年のご生涯でした。
合掌