「まさか、こんなことになろうとは」
コロナ禍で、よく聞かれる言葉になりました。
自分が今いる立場や状況に、何かしらの変化が生じたゆえに出る言葉です。疫病が流行ることによって、ある意味、「死を身近に感じる」ようになったのは私だけでしょうか。ただ、太平洋戦争を経験された方は、「戦時中、食料難で何も食べるものがなくて、自分を含めて、子どもたちの病死や餓死におびえていたことを思えば、コロナぐらいで、へこたれてはおれません」とおっしゃっておられます。元気をいただく言葉です。
昔から、人生には上り坂、下り坂、そして「まさか」があると言われますが、今はまさにコロナ禍で、毎日がまさか、まさかの連続です。感染者や重症者、そして死者が増えることによって、その「まさか」が、より鮮明に見えていると思います。
「人生、いつどこでどうなるかわからない」ことが、自分にとってはコロナ禍で、以前にも増して、より深く感じられているのかもしれません。
解剖学者の養老孟司先生は、「いつ自分がどのように死ぬものかはわからない。そういう意味じゃ人生は不安だらけです。ただ、人生は、そういうものです。不安はあって当たり前です。あって当たり前の不安と、どのように付き合っていくかを心得ていくのが、成熟するということです。今の人は不安を消そうとするけど、不安は消えません。人生はそういうものです。あるものはしょうがない、不安と折り合わないといけない。」と、おっしゃっておられます。
5歳の誕生日前にお父さんを亡くされてからは、「それが人生最初の記憶だから、私の人生は死から始まっている。だから、死から逆算して人生を想うのは、ほとんど日常化している」と、話されています。(NHKBS番組から)
また、iPhoneで有名なアップル社の共同設立者の1人である、スティーブ・ジョブスさんが亡くなる6年前に、母校のスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは有名です。若いときから座禅を組み、仏教に興味を抱いていたジョブスさんは、このときすでにガンを発病していました。
スピーチの中で、自分が17才の時に読んだ本の言葉を紹介しています。「毎日、これが人生最後の日だと思って生きてみなさい。そうすればいつかそれが正しいとわかる日がくるだろう」と。
そして、昨年9月6日に88歳で亡くなられた上智大学名誉教授「アルフォンス・デーケン」先生は、死の恐怖や死別の悲嘆といった人生の重いテーマを、時にはユーモアを交えながら説いておられました。
「死の学びは深い生につながる」との信念があり、「死の哲学」から「死の準備教育」と進化していった生死を見据えた学問は、「死生学」の名前で、いまもなお深化し続けています。
「死のタブー」に風穴をあけ、死を遠ざけてきた昔からの風潮に変化をもたらし、自らの終末期や死について学び、話し合える雰囲気を作り出してこられました。「死を遠ざければ、死は受け入れにくくなる」と語られ、「人生は喪失体験の連続です」と書かれています。
生老病死(生まれて老いて病んで死んでいく)の人生に誰もが、いくらかなりとも抗いますが、どうにもなりません。結局は、すべてを受け入れていくしかありません。
お釈迦さまは、「身自當之 無有代者」(私は私であって、私に代わる者はいない)と、おっしゃっておられます。