一九九四年に発足した自社さ連立政権で首相を務めた村山富市さんが亡くなった。一〇一歳だった。村山さんは私が記者として初めて赴任した大分市の出身。首相在任中は国会担当記者として身近に接した。その飾らない人柄や私心のない誠実さも相まって、特に親近感を感じる政治家だった。
訃報に接し、当時のことをさまざま思い出したが、最も強く記憶に残っているのはなぜか九五年一月一七日、阪神大震災発生直後に亀井静香運輸相(当時)が漏らした一言だった。「村山さんは運が強いな」
私は当時、運輸省(現国土交通省)担当だった。振り返れば不謹慎な発言だが、まだ被災地の深刻な状況がよく分からない時間帯だった。社会党はこの時、自民党と連立政権を組んだために内部の対立を深めて分裂の危機に陥り、右派が決起集会を開こうとしていた。そこへ起きた大地震。集会は延期された。
村山さんは混迷続きの政局の中で社会党党首へ、さらに首相へと押し上げられた。そして党の最大のピンチも急に止まった。「運が強い」というのは、望まないのに上へ上へと押し上げられる人柄や党分裂の危機回避を予想しての発言だが、震災は単に社会党を延命させただけに過ぎなかった。
自民党との連立で社会党は大幅な妥協を迫られた。村山さんは首相就任とともに自衛隊合憲、日米安全保障体制の堅持を打ち出し、党の基本政策を転換した。内閣の最高責任者としての決断だったが、党内外の護憲派の批判を浴び、党勢は衰退の一途をたどった。
阪神大震災では初動対応が遅れ、首相の指導力も厳しく問われた。やがて社会党右派の人々は党を見切り、今の民主党へと流れていった。そして民主党が政権を握ったとき、今度は東日本大震災をめぐる不手際が批判を浴び、やがて政権を失うきっかけとなった。市民運動出身の菅直人首相(当時)と労働運動出身の村山さん。偶然とはいえ皮肉なめぐり合わせだった。
村山政権の評価は「功罪相半ば」とされるが、特筆すべき成果もある。戦後五〇年に合わせて発表した首相談話はその真骨頂と言えるだろう。アジア諸国への植民地支配と侵略に対する反省とおわびを内閣として初めて明記した。この立場は後の政権にも基本的な歴史認識として引き継がれ、戦後八〇年まで日本の近隣外交の基盤となってきた。
高市早苗政権が誕生し、台湾有事に関する発言をきっかけに中国との関係が悪化している。村山さんの死とともに村山談話の継承は正念場を迎えるのか。今年は近隣外交の基盤が変貌する一年になるのかもしれない。
(西日本新聞客員編集委員)