記者になって四〇年を超えた。この間、取材や会合を通して多くの人との出会いを重ねてきたが、再会して話をするたびに背筋が伸びる人がいる。その一人、九州大名誉教授(刑事法)の内田博文さん(七八)に久々にお会いした。取材で初めてお会いし、自らの不勉強ぶりを恥じてからすでに三五年。相手が誰であろうと忖度なく、穏やかな語り口で鋭く核心を突く「戦う法学者」ぶりは健在だった。
内田さんは二〇二一年七月から国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)の館長を務めている。月の半分は福岡市の自宅を離れ、東京に滞在。患者への隔離政策や差別の実態を示す資料など約九〇〇点が常設展示されている資料館の運営や展示内容の改善を図りつつ、国のハンセン病差別解消に向けた施策検討会の座長などを務め、講演にも飛び回る。国の施設の責任者であっても国におもねることはなく、偏見や差別の解消が進んでいないのは「政府の怠慢」と言い切る。今回お会いしたのは、福岡市で開かれたハンセン病勉強会の後の懇親会だった
ハンセン病はノルウェーの医師ハンセンが発見した「らい菌」による感染症。かつてはらい病と呼ばれた。治療法がなかった時代に発病した人は顔や手足が変形したため、奇病として恐れられた。国内での強制隔離政策は一九〇七(明治四〇)年に「ライ予防ニ関スル法律」が公布されて始まり、一九三一(昭和六)年の旧らい予防法制定後は官民一体で地域の患者を収容する「無らい県運動」が展開された。
松本清張原作の映画「砂の器」を観た方は、よくお分かりだと思う。家族への感染や差別を恐れて放浪の旅に出た患者は強制的に捕えられ、療養所に隔離された。戦後、薬の開発によって治療法が確立した後も隔離政策は続き、断種や堕胎といった人権侵害や差別を引き起こした。強制隔離は根拠法である新らい予防法が廃止された一九九六年まで続けられた。
内田さんがハンセン病への関心を深めたのは、隔離政策が解除された直後。九州大の学生たちとともに熊本県の療養所「菊池恵楓園」を訪ね、入所者とじかに接したのがきっかけだったという。二〇〇一年以降、内田さんも関わり元患者や家族が起こした損害賠償請求訴訟の判決で、国の誤った強制隔離政策は断罪され、その責任は確定した。にもかかわらず社会の偏見差別は根深く、人生を奪われた人々の尊厳の回復は果たされていない。
「国の取り組みがなお不十分なことは明らかですが、かつて国策の過ちに迎合したメディアの対応も不十分ですね」「ハンセン病問題はまだ終わっていませんよ」。内田さんはかつてと同じように、穏やかな口調で私に活を入れた。
隔離政策の解除後も多くの元患者は故郷に帰れないまま療養所での生活を続けている。厚生労働省によると、全国一三カ所にある国立療養所の入所者数は今年五月現在、七一八人。昨年から九二人減り、平均年齢は八八・三歳になった。