浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

光明寺だより

「浄土真宗と現代」(7)  

光明寺住職 傍示裕昭

「生きるのに、右往左往するのは当たり前です。経験がないのですから。」

コロナ禍以前に戻っていると言っても、先の見えない不透明な混沌とした時代状況は、何も変わりません。自分の人生も一緒で、先が見えない不安に押しつぶされそうになり、誰しも生きる気持ちが後ろ向きになることがあります。ただ、先のことを考えても、先のことは先のことでどうなるかわからない、まさに、なるようにしかならないのです。ふさぎ込んでばかりいても、落ち込んでばかりいても、嘆いてばかりいても、状況は悪くなる一方です。悪循環のスパイラルです。

そうなると、いよいよになってから、切羽詰まってからでは、どうしたら良いかを考える余裕もなくなり、SOSも発信出来なくなります。心がフリーズしてしまってからでは、手遅れになります。とりあえずは、目の前のことに集中することです。先のことは先のことです。その時はそのときです、その時になって考えればいいことです。

いま、こういうことが言えるのも実は、私がこういう体験をしたからです。9年前に坊守を病気で亡くし、お寺のこと、家庭のこと、子どもたちのこと、その他、全てのことを一人で背負い込んで1年4ヶ月余が過ぎた頃、ある日突然、「不眠症」に陥りました。夜寝ても約2時間で目が覚めるようになり、朝までうつらうつらする眠れぬ日々が1ヶ月以上続きました。

いつか、こういう状態は終わるだろうと楽観的に考えていましたが、終わるどころか、そのうち、身も心も疲れ切ってしまい、食欲も無くなりました。心療内科に通い、いろいろ薬も服用しましたが、睡眠薬を服用すると今度は、一日中眠くて眠くて起きていられなくなりました。そうこうしているうちに段々と気持ちが落ち込んでしまい、こころが「ひきこもり」状態になって、何をするにもその気力が湧かなくなってしまったのです。

どこかに逃げて行きたいと本気で思うようになったのですが、お寺や家族のことを考えれば逃げ出すわけにもいかず、鬱鬱とした気持ちでした。そうこう考えているうちに、誰かが亡くなれば、枕経、お通夜、お葬式と、いやがおうでもお参りに追われます。最初の頃は、重たい気持ちを引きずるようにしてお参りに出向き、30分の葬場勤行を気力を振り絞ってやっとの思いでお勤めして帰って来て、すぐに横になって休む生活を続けていました。しばらくの間、誰も死んでくれるなとも考えていました。

そう考えていても、死は向こうからやってきます。何度も何度も、何とも言えない重たい気持ちでお葬式を勤めているうちに、ある日、無心でお経を上げている自分にハッと気づきました。お経を上げている時間だけが、何も考えずに目の前のことに集中することが出来ていました。お経(佛説)の世界は、あの世(極楽浄土)のことを切々と説いてありますから、阿彌陀さまの世界に引っ張り込まれていたのです。あの世に往っていたのです。いまにして思えば、み佛さまの効能でしょうか。その時間だけは救われていたのです。

結果的に、重い気持ちを引きずり、いやいやながらに出向いていた報恩謝徳行のご縁によって、私は少しづつですが、み佛さまに癒やされていました。

お葬式の縁で、生死一如という人生の真実を知らされることによって、いま、私が「為すべきこと」を教えられたのです。

合掌