浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

ジャーナリストの眼力

貧困と孤立の果ての凶行

安倍晋三前首相(六七)が凶弾に倒れた。凶行の瞬間を撮影したニュース映像を初めて見たときに沸き上がったのは「何かが違う」という違和感だった。
 

何が違うのか。この違和感は何なのか。二度、三度と映像を見返すうちに違和感の正体を理解した。現場で警察官に取り押さえられた山上徹也容疑者(四一)があまりにも静かなのだ。警察官に押し倒された後、抵抗する素振りはほとんど見せず、暴れることもなかった。終始無言だったという。連行される後ろ姿は、まるで抜け殻のようにも見えた、だが、そこに漂っていたものは決して無力感ではない。敗北感とも違う。むしろ孤立と貧困、怨嗟の末に行き着いた計画を遂行し、社会への復讐を果たした達成感だったのではないかとさえ思っている。
 

山上容疑者は就職氷河期世代の一九八〇年生まれ。京大卒の父親が自殺したのは四歳の時だった。母親が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に入信し、一億円以上を献金して破産。自宅も失った。進学校の高校に進んだが、経済的な理由で大学進学を断念。海上自衛隊に入隊していた一七年前には自殺未遂を起こした。七年前には兄を自死で失った。その後は派遣社員として働き、職を転々とした。
 

山上容疑者のツイッターには「負け組」になった絶望が吐露されていた。「私を弱者に追いやり、その上前で今もふんぞり返る奴がいる。私が神の前に立つなら、なおの事そいつを生かしてはおけない」。非正規雇用にあえぎ、友人や家族、共同体などとの結び付きもないまま孤立。自身を絶望の淵に追い込んだ日本社会への復讐を誓い、その矛先を旧統一教会に定め、自らが「神」となって旧統一教会と関係があった安倍元首相襲撃を計画したのか。自分自身の存在意義をかけた、半ば自殺的な殺人だったとすれば、逮捕後の背中に漂った抜け殻のような脱力感が、やるべきことを完全に遂行した達成感だったとしても不思議ではない。そこから先の人生設計は何もなかったのだ。
 

ツイッターをはじめとするSNS(交流サイト)は今、分断と憎悪と怨嗟に満ち、いつ火がついてもおかしくない状況にある。貧困や孤立などの絶望的な状況に追い詰められ、自己責任と責められ、ぎりぎりの精神状態の人は山上容疑者以外にも大勢いるだろう。事実、二〇〇八年に起きた秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大元死刑囚も、三年前に京都アニメーション放火殺人事件を起こした青葉真司被告も、その後電車内で相次いだ無差別殺傷事件の犯人も、貧困と孤立の果ての凶行だった。
 

社会への復讐としての、半ば自殺的な殺人はこの先も減ることはないだろう。安倍元首相のような要人や政治家が再び犠牲になる可能性もあるだろう。自己責任をうたい、格差を拡大し、社会的な結びつきを破壊する新自由主義の在り方はこのままでいいのか。要人警護の強化を指示するだけでは何も変わらない。