門徒代表者協議会新代表 光明寺門徒 高橋彦太郎
私は昭和50年に生まれ、久留米の諏訪野町にあった家で、父母、3人の姉と育ちました。親族も近くに住んでおり、お盆、法事となるとの親族の皆で集まり、お仏壇の前に正座して前住職の読経のお声をきかせていただいていました。合唱の指導もされていた前住職様のお声は、仏間の障子紙が震えるほどの声量で、今でもその雰囲気、迫力を覚えています。小学生の私は、お経の意味はわからずとも、幼いながらに仏法のあたたかさ、力強さを感じ取っていました。
小学校卒業後、長崎の中学校に進学することとなり、親元を離れ寮での生活を始めました。それまでと一変した寮生活の中で、親の有難さを痛感した矢先、母がガンを患っていることがわかり、中学2年の冬には亡くなってしまいます。元気だった母がなぜ苦しみ亡くなってしまうのかという無力感、心に穴が開くような寂しさを感じ、悲しみを癒すためか哲学的な本を読むようなときもありました。同時に、父の悲しみも、私から見てとても大きく感じ辛い思いをしました。
母が亡くなってから、父は仏教書を読むようになったように思います。父は、法事の場以外でも、死について考えること、手を合わせることの大切さを私に話すようになりました。今になって振り返りますと、この頃父から受けた影響が、仏さまとのご縁となったように思います。父は「白骨の御文章」を大事に思っており、ことあるごと「朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身」なのだからと言っておりました。
そんな父が、私が大学を卒業する年に倒れ、2年療養しましたが亡くなりました。倒れてからコミュニケーションは殆どできない状態でしたので、病床から家族、親族の様子をみてどれほど苦しんだかと思うと今でも辛い思いです。24歳にして両親が亡くなり、悲しむ間もなく、社会人として仕事を始め、親族兄弟に助けられながら家業を継ぐべく奮闘してきました。
父母の葬儀をきっかけに、光明寺様が久留米で唯一の本願寺派の寺院であり、福井県鯖江市にルーツをもつ祖父が戦後に久留米で事業再興を図った際、鯖江と同じ本願寺派の光明寺様を頼ったことを知ることとなりました。戦後の激動の時代の中、祖父にとっては久留米という新しい土地で光明寺様の存在が心の支えだったことと思います。24歳で両親を亡くし、右も左もわからない私にとっても、時々の法事やお寺の場が心の支えとなってきました。
現住職様から新本堂建立計画を伺った際は、開基以来の大事業に取り組まれる熱意に私自身が励まされました。平成三十年の完成の際には、前門主様をお迎えして落成慶讃法要をお勤めされ、現住職様、門信徒の皆さまとともにお祝いできましたことは、この上ない喜びで、誇らしいことでした。
祖父の時代からの光明寺様、前住職様とのご縁が、幼いころから聞いていた読経の声を通して、現住職様、門信徒の皆さまへとつながり、私一人ではない、心のよりどころ、仏縁として生きる支えをいただいています
この度、柳川組の門信徒代表という大役を引き受けさせていただきますこと、門徒としても甚だ不勉強、未熟ではありますが、このような有難い仏縁をいただいた者として、お念仏に生きる喜びをより広く、次の世代へつないでいくことを皆さまとご一緒に考えていきたいという思いでおります。合掌