2020.3.20 版
【中村哲医師の残したもの】
西日本新聞社 取締役編集局長
傍示 文昭
戦乱と干ばつに苦しむアフガニスタンの支援活動に生涯を捧げ、昨年十二月に凶弾に倒れた中村哲医師=享年(七十三)=のお別れ会が一月二十五日、福岡市の西南学院大チャペルであった。
中村さんが現地代表を務めた福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」によると、全国から約五千人が参列し、会場に入りきれない人が周辺にあふれた。私も参列者の一人として中村さんの生涯と向き合い、中村さんをしのんだ。
中村さんは長年医療活動に従事し、近年は用水路を建設する事業に携わってきた。
なぜ用水路なのか。中村さんは言った。「診療所を一〇〇個つくるより、用水路を一本つくった方がみんなの健康に役立つと医者としては思いつきます」。
用水路を作ることは、医療行為そのものであると考えた中村さんは、白衣を脱いで自らショベルカーを操り、身を粉にして土木工事に従事した。その結果、茶褐色の大地に緑が戻り、難民化した人たちが故郷に帰還した。事業で潤った土地は東京ドーム約三五〇〇個分にあたる約一万六〇〇〇ヘクタール。約六十万人が恩恵を受けたとされる。
さらに中村さんが用水路建設とともに大切にしたのが、モスクとマドラサ(イスラム神学校)の建設だった。
信仰の拠点の整備は、精神を支える。モスクが完成したとき、現地の人たちは「解放された」と言ったという。
タリバン掃討作戦以降、米軍はモスクを攻撃対象としてきた。モスクの存在をネガティブに捉え、イスラムの信仰を否定的に扱った。
ムスリムであることが悪であるかのように扱われてきた中、新たなモスクが作られたことは彼らにとって精神の解放そのものだったといえるだろう。
中村さんの事業においては、まさに土木と信仰が一体化していたのだ。生前こうも語っている。「水が来たとき村の人はもちろん喜びましたけど、モスクが建つと聞いてもっと喜んだんですよ。イスラム教徒であることが悪いことであるかのように、一種のコンプレックスが(村を)支配していた。やっぱり『地元の人が元気がでるには』というのはありましたよね」
中村さんは敬けんなクリスチャンだったことで知られる。ただ、信仰的なバックグラウンドに凝り固まらず、本質的な部分で宗教の壁を超えて世のためになる働きをする。宗教によって戦争が起こっている中で、その教えが世界共通だということを身を持って表した中村さんの行動は、宗教に携われる者こそ学ぶべき本質のような気がしている。
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西日本新聞は、中村さんの意志を受け継ぎ、ペシャワール会の支援につなげるインターネットの特別サイト「一隅を照らす」を開設した。「一隅を照らす」は中村さんの座右の銘。「今いる場所で希望の灯をともす」という思いが込められている。サイトでは中村さんの足跡を紹介。パキスタンに赴く中村さんを本紙が初めて取り上げた一九八三年五月十八日付夕刊の記事をはじめ、連載や画像などを収録した。ぜひアクセスしてみてほしい。