浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

お寺の歴史

光明寺のあゆみ

 江戸時代 一六五四年、久留米有馬藩二十一万石(旧久留米市 三潴郡 三井郡 浮羽郡)で浄土真宗の改派騒動が起こり、領内一三五ヵ寺の真宗寺院が、「改派の誓紙」を東本願寺に提出しています。(江戸での徳川秀忠公十七回忌法要の時、西本願寺第十三代宗主 良如上人と藩主 有馬忠頼公が関係した些細な揉め事が原因との説。)

 当地は、真宗大谷派久留米教区として今もって、東本願寺の牙城です。

 ただ、西本願寺総局も明治三十六年、のちに大谷探検隊を率いてシルクロードの西域文化の史跡発掘・蒐集に出向いた、西本願寺第二十二代宗主「大谷光瑞猊下」が御門主にご就任されるや、久留米での開教に着手され、明治四十四年 宗祖親鸞聖人六五〇回大遠忌法要を縁として、光明寺が久留米の地に、唯一の西本願寺直轄の寺院として建立されました。光明寺の寺号の由縁は、明治時代の中期、西本願寺第二十一代宗主「大谷光尊御門主」が鹿児島への御巡教の折、久留米を通る時に立ち寄る寺院が無くて、「久留米を通る時はトンネルの中を通る思いだ」という、お気持ちを伝えられていたことに由来し、「トンネルの地に、ひとすじの光明を灯していただきたい」という、「大谷光瑞御門主」の強い願いの表れだったと言い伝えられています。当時、京都御本山から赴任した初代住職 傍示鉄男の時代には、草創期にもかかわらず仏教婦人会、西南仏教学院を設立し、教線の拡大と宗門興隆に力を尽くし、第二代住職 傍示曉了の時代には、その人柄を通じて寺門の護持発展とお念仏繁盛に大いなる力を発揮し、いまの光明寺の礎を築いています。

昭和28年9月10日 大谷光照第23代御門主をお迎えして(6月の筑後川氾濫水害お見舞い)昭和28年9月10日 大谷光照第23代御門主をお迎えして
(6月の筑後川氾濫水害お見舞い)
平成6年8月 お盆平成6年8月 お盆
平成30年11月3日(文化の日)光明寺本堂等新築落成慶讃法要 大谷光真御門主 御巡教平成30年11月3日(文化の日)光明寺本堂等新築落成慶讃法要 大谷光真御門主 御巡教

 そして今般、平成十三年春から取り組んで参りました、光明寺開基百周年記念事業の完遂を記念して、平成三十年十一月三日 文化の日に、西本願寺第二十四代宗主「大谷光真御門主」をお迎えし、御門主様御導師のもと『光明寺本堂等新築落成慶讃法要』を、御巡教として厳修することができましたことは、光明寺の歴史に燦然と輝く偉大な栄誉であり、光明寺開山以来、ご縁を戴いた先達門信徒各位の崇高な佛恩に報いることが出来たとあらためてここに、深甚の謝意を記す次第です。

 誠に、この度のご勝縁は、後世にまで語り継いでいく平成の大事業になったと振り返っています。

合掌

今日世尊 行如来德