【表白】
敬って、大慈大悲の、阿弥陀如来の御前に、申し上げます。
本日ここに、恭しく尊前を荘厳し、懇ろに正信念仏偈を唱和して、紫雲山光明寺 宗祖親鸞聖人七百六十三回忌・「報恩講法要」並びに、光明寺第二世住職・順道院釋曉了・俗名 傍示曉了の、二十五回忌法要をお勤め致します。
宗祖親鸞聖人様は、1173年5月21日 京都山科、日野の里にお生まれになり、御年九歳で、青蓮院でお得度され、比叡山延暦寺の仏門に入られ、20年にわたって自力聖道門のご修行にいそしまれました。しかし、「生死の悩み」を超越することができず、二十九歳の時、誰もが救われる道を求めて、法然上人の草庵を訪ね、ついに自力修行の道を棄てて、
南無阿弥陀仏の本願他力、お念仏の世界に帰し、浄土の法門を極められました。
特に、顕・浄土真実教行証文類・教行信証を説き示して、浄土真宗の教義体系を確立され、晩年には、三帖和讃をはじめ数多くのご聖教を書き残し、智恵の灯火を、高く掲げて、人の世の闇を照らされました。
しかし、悲しい事に1263年1月16日 ついにお念仏の息絶え 往生の素懐を遂げられたのであります。御年九十歳でした。それから、すでに762年の歳月を経ましたが、ご高徳はいよいよ輝きを増し、浄土真宗のみ教えはますます広まり、本願念仏を信じ、お念仏を申す者は国の 内外に 満ちあふれています。
おかげさまで、光明寺は、明治44年の開山以来、今年で116年目を迎えています。また、本日は、第二世住職・傍示曉了の二十五回忌法要を無事に迎えました。本当に有り難い事だと思っております。前住職は、生前、明善高校の定時制で教鞭を執りながら、二足のわらじで、まだまだ発展途上の段階にあった光明寺の法灯の護持発展、仏法興隆に努力しました。学生時代から、スポーツや音楽にいそしみ、特に合唱は、希有なるバリトンの歌声で人々を魅了し、宗門の世界においても、「勤式・お経の先生」として、その名声は、福岡教区のみならず、御本山にまで轟いていました。
その父が、亡くなる時に残した、言葉が、「お前には、親父の代からの悲願だった本堂改築という大きな仕事を残していくが、宜しく頼む」でした。
その父の遺言を、尊い「みちしるべ」として、平成13年春から「光明寺開基百周年記念事業」に、寺族、門信徒一丸となって取り組み、後世に誇るべき立派な、伽藍を完成することができました。
そして、6年前・平成30年11月3日に、京都ご本山 西本願寺から、本願寺第二十四代、大谷光真、前御門主様をお迎えし、盛大に「御本堂等、新築落成慶讃法要」をお勤めする事ができましたことは、、光明寺の草創期から今日に至るまでの間、ちょうど116年、この間、先達の寺族をはじめ、、先立った有縁門信徒方々の、お見守り・お導き・お支えが、あればこその「證」として、無事に、元気に、お参りが出来る事だと、肝に銘じております。
宗祖・親鸞聖人様がお示し戴いた、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」との仰せを、生きていく「ともしび」とし、、、「他力真実のむねを、あかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば、仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」とのお言葉を、生きていく「よすが」として、今後は、、「念仏して自己を充足し、報土の底に埋もれるを持って喜びとなす、覚悟を磨いて」、生きて往く所存です。
お念仏、「なんまんだぶつ」に、「立ち上がる元気をいただく人生」は、「いつでも、どこでも、お慈悲のど真ん中・・いつ死んでも大丈夫、いつまで生きても大丈夫」と、我が人生を、阿弥陀様に見守っていただき、支えていただき、案じていただきながらの人生行路です。
本日、この、報恩講ご法要、並びに、前住職二十五回忌ご法要の、ご勝縁に遇って、いよいよ、聞法・お参りにいそしみ、四海のうち、みな御同朋・御同行のご遺訓を体しつつ、先人先達の御恩、御遺徳に「感謝の誠」を捧げながら、もろともに、お浄土への人生の旅路を、「精一杯、生ききる」決意です。 合掌 なんまんだぶつ
令和6年11月30日 紫雲山光明寺住職 釋裕昭 謹んで申し上げます。