浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

光明寺だより

浄土真宗と現代(3)

                                          光明寺住職 傍示裕昭

 いつの時代でも、いかなる社会状況でもそうですが、「み教えを伝える」ことに、皆がそれぞれに努力しています。まして、いまのコロナ禍の状況では、「伝えることから伝わること」に、智慧を絞らねばなりません。

 時代社会の趨勢を鑑みる時、宗門や、寺院社会はいま、その大きな時代の潮流にもまれながら、「み教えを伝えること、そして、み教えが伝わること」の岐路に立っています。

 デジタル化社会のなかで、過度な情報に振り回されて自分を見失い、何を支えに生きればよいのか。みんながみんな、人生の「道標(みちしるべ)」を見失っています。

 さらに、「仏教離れ」「お寺離れ」といわれる言葉に代表されるように、「ご法事はしない」「お葬式は簡単に家族葬や一日葬」「俗名のままで納骨」と、教義、儀礼等を含めた「仏事の無用化」が加速度的に進んでいます。

 いまこそ今一度、原点に立ち返って、「お経を上げておつとめをする」ことの意味を、みんなが確かめる時だと感じています。

 阿弥陀さまの前で、お経を上げておつとめするということは、阿弥陀さまからの喚(よ)び声、亡き人からの願いに出遇うご縁を賜るということです。私たちのご先祖お一人おひとりは、その喚び声や願いに出遇わせていただく時間や場をとても大切にしてきた永い歴史があります。

 それは、何が起こるかわからない「まさかの時代」と言われるこの世の中で、何をしでかすかわからない自分自身にとって、人生の本当の依りどころは何かを確かめずにはおれない聞法の歴史、つまり、み教えに学んできた「お聴聞の営み」があります。

 仏法の世界は、「意味の世界」を説き示し、世俗の世界は、「価値の世界」を追い求めて止みません。

 現世を生きるうえにおいては、片方だけではなくて、両方を見る眼が大切です。それは平衡感覚とも言えましょう。

 意味の世界とは、「かけがえの無さ」です。私という人間存在は、この世に一人だけです。自分と同じ人間は誰一人としていません。このかけがえの無さの眼差しが、「ほとけさまの眼差し」です。逆に、世俗における私たちの眼差しは、「損か得か、善いか悪いか、役に立つか立たないか」です。これでは自分中心の価値観のみに生きてしまい、場合によっては、生きている意味や存在価値が否定されます。ここには安心(あんじん)はありません。

 「みほとけさまの眼差し」を感じる時こそがお仏事の場です。阿弥陀さまの世界に向かい合い、阿弥陀さまからの喚び声、亡き人からの願いを感じる瞬間、そのひととき、ひとときです。

 私たちの人生にはこういう時間が必要なのです。お仏事の場で、亡き人を案じてお念仏申すひととき、実は亡き人から案じてもらっている自分に気づかせていただくことがとても大事なことです。私たちは願われて、「生かされて生きるいのち」を生きているのです。

 お念仏 南無阿弥陀仏は、『いつも一緒にいますよ』の、阿弥陀さまからの心強い喚び声です。

「われとなえ、われ聞くなれど南無阿弥陀、つれていくぞの親の喚び声」

 宗祖親鸞聖人が、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(歎異抄)といわれた「まこと」の意味は、お念仏こそ、『生の依るところ、死の帰するところ』という意味にほかならないのです。

                                         (続)  合掌