浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

光明寺だより

浄土真宗と現代(4)

光明寺住職 傍示裕昭

 

 宗祖親鸞聖人がお示しされた、浄土真宗の根本教義は、「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏になる、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや」(歎異抄第十二条)です。

 今生において、念仏して自己を充足し、人生を荘厳してお浄土に参る。そしてすぐにこの世に還相回向して縁ある衆生を、南無阿弥陀仏で救うというお示しです。

 私の学生時代の恩師は、「お浄土に参らしてもろうて、じっと休んで眠ってしまうだけの南無阿弥陀仏の仏さんになるんじゃないんだ。(南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらわせるなりと。御文章五帖十三通・無上深甚章)

 この世に還って来て縁ある朋(とも)どもを、南無阿弥陀仏で救うという大きな仕事が待っているんだ。お浄土に参らしてもろうてこそ忙しくなるんだから、この世におる間は、ゆっくりと休んでおきなさい」と、仰っておられました。

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり。」(歎異抄第一条)

 浄土真宗のご利益は、「摂取不捨」です。阿弥陀さまの、『われにまかせよ必ず救う』の仰せを信じ、悲喜こもごもの縁あるたびにお念仏を申させていただきますが、私が称える一声一声のお念仏は、私が称えているお念仏であっても、本当はそうではないのです。

 先立って往った先達、先人たちが阿弥陀さまと一緒になって私の元に、私の口元にまで還って来て、私の口を借りて、私がお念仏を称えようと思うその前に、私の口元を動かしめて「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と、常に一緒にお浄土への人生の旅路を歩いているよと、いつでもどこでも見守りながら、導きながら、案じながら、お浄土までいつも一緒だよと。

 「南無阿弥陀仏の回向の

 恩徳広大不思議にて

 往相回向の利益には

 還相回向に回入せり」(正像末和讃)

 

 先立ったお父さん、お母さん、お祖父ちゃん、おばあちゃん、お子さん、奥さん、ご主人等々が、阿弥陀さまと一緒になって、南無阿弥陀仏のお念仏の仏さまとなって、私の口元にまで還って来られて、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、つねに一緒に寄り添い、付き添い、背中を押して、元気を出していこうよと、誘(いざな)っておられます。

 その、聞こえてくる一声一声のお念仏を称えることによって、『われにまかせよ必ず救う』の「阿弥陀さまのおこころ」を聞かせていただき、私たちは安心して阿弥陀さまにお任せし、お浄土への人生行路を渡って行けるのです。

 阿弥陀さまのおこころが至り届いたお念仏を称えるひとときひととき、阿弥陀様さまの大きなお慈悲につつまれて、「いつ死んでも大丈夫・いつまで生きても大丈夫」と、生きる原動力となる他力の大信心が恵まれて来るのです。(続)         合掌