浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

住職の法話

「値遇百周年 温故知新」うけつぐ伝灯 つたえるよろこび

 表題に掲げる「値遇」は、宗祖親鸞聖人の御著「顕浄土真実教行証文類」の三カ所に出てくる言葉です。

 値遇は「であう」という意味ですが、宗祖はとくに仏典に引用され、三千年に一度花を咲かせるといわれる優曇華の華の咲くことにたとえて、正しい仏法に出会うことの大切さを示されています。また「遇」は思いがけなくたまたま出会うという意味を持っています。このことから、私たちは光明寺の百周年(平成二十三年)という節目に、たまたま出会いました。

 私は、光明寺の三代目になります。歳を重ねてくるたびに「伝統を受け継ぐ」その重みをまた一段と、強く感じています。

 平成十三年春から、足掛け十七年に亘って取り組んで参りました「光明寺開基百周年記念事業」もおかげさまで、門信徒皆様の物心両面にわたる心からなる、御懇念 御懇志をお供え戴くかたちで無事に円成することができました。

 父(前住職)の、「お前には大きな仕事を残していくが、本堂を宜しく頼む」の遺志をを受け継ぐかたちで始めた建て替えでしたが、振り返ってみますと、当初から幾多の困難と課題に直面し、何度となく挫けそうになる中で坊守 留美子をはじめ、多くの有縁の方々の励ましをいただきながら事業を進めてくることが出来たことは、誠に有り難き事であり、本当に支えていただいたと、いまはこのことひとつを、本当にありがたく実感いたしております。あらためて皆様には、衷心より心を込めて御禮申し上げる次第でございます。

 さらに、有り難いことに今般、十一月三日に御本山より『本願寺第二十四代宗主 大谷光真前御門主様』をお迎えし、「光明寺本堂等新築落成慶讃法要」をお勤めさせて戴く事に相成りましたことは、光明寺始まって以来の誠に慶ばしい栄誉の極みであり、先達の方々の尊い御恩に報いることができたと、このこともまた、本当に有り難く、嬉しく戴いております。

 あらためて歴史を振り返りますと、光明寺は明治四十四年、宗祖親鸞聖人六百五十回大遠忌法要を縁として、大谷光瑞御門主様のご下命によって設立された開教寺院です。今でも久留米で唯一の本願寺派寺院ですが、久留米有馬藩は、江戸時代1648年頃に改派紛争が勃発し、領内の百三十五ヵ寺の真宗寺院が「改派の誓紙」を東本願寺に提出しています。その影響で今でも久留米は、真宗大谷派の牙城であり、皮肉にも、真宗大谷派久留米教区教務所に一番近い寺院が光明寺です。今は、おかげさまで、お供え戴く「浄財」だけで、なんとかお寺を護持することができますが、創建当時は、ご門徒は無く、困窮を極め、半ば閉鎖状態にあったと伝え聞いています。

 初代住職である傍示鉄男が、大正十年に住職として定住してから、坊守とともに仏教婦人会を設立して寺門の興隆に尽くしています。

 初代坊守は小学校の教員を務めながらお寺の家計を助けています。父の述懐によれば、「おふくろの、学校から戴くお給料がお寺を支えていた。俺たちもそれで、ご飯を食べることができた」と。食卓には、食べたお魚の骨を乾かしてそれをすり鉢で擦って、塩と胡麻を混ぜた「手製のふりかけ」がいつも置いてあった、俺はそのふりかけのおかげでこんなに大きくなることができたと、話していました。ただ、残念なことに初代坊守は昭和十六年に急性脳溢血で、四十五歳で急逝しています。実は前年に、創設以来の借金を返し終えたばかりだったそうで、当時、祖父の憔悴して嗚咽しながらお棺に取りすがっていた姿を、俺は忘れることができないと父は語っています。

 父の遺言に、「お寺がお寺としてその地に根ずくまでに時間にして百年、住職の代で三代はかかる。鎌倉幕府は三代で滅んだが、徳川幕府は三代で礎を築いた。うちもお前の代までかかるから、手を抜かずにしっかりやってくれ」と、と言い残しています。

 平成十二年十月二十日、今生最後の誕生日になったこの日、父に七十四年の人生の感想を聞いた時には、「俺は俺なりにしっかりと人生を歩んで来ることができた。やりたいこともある程度やることができた。俺は明日死んでも悔いはない。後生の事は、佛さまに、阿彌陀如来に、南無阿彌陀佛にお任せしとるから、お前はお前の人生を全うしてから来い」と、私に人生の道標を示してくれています。

 阿彌陀如来のみ教えを仰ぎ、宗祖親鸞聖人のお示しに導かれながら、お浄土への人生を歩んだ者の無上の喜びが、その言葉一つひとつに溢れんばかりに満ち満ちています。

合掌