今月の法話

法語 正像末和讃(親鸞聖人作)

弥陀の本願信ずべし

本願信ずるひとはみな

摂取不捨の利益にて

無上覚をばさとるなり

法話

 人生の中で、時間と人間の接点は誰でも「今」より他にありません。誰でも、今、御飯を食べ、今、風呂に入り、今、眠るのです。西洋のことわざにも、「明日は永遠に来たらず」とあります。

 人間は百年生きたとしても今日、「この今」の連続です。されば、如来さまに救われるのも今日、ただ今です。それなのに私達は、そのうちに信心頂いて有難くなって、お念仏が出るようになってから救われるのだろうと思っています。

 ではないのです。如来さまは、「そのまま来い」と時代や場所をこえて、いつでも、どこでも、誰にでも呼びかけて下さっています。あなたが助かる価値が出来てから助かるのではありません。救われる価値の何もない、今のあなたを如来さまがそのまま救って下さるのです。

 如来の本願とは、「南無阿弥陀仏」のことです。あなたが、「なんまんだぶ」と如来の名を呼ぶ時に、如来さまは聞いておられるのと同時に、あなたと一緒になって大喜びで「なんまんだぶ」と称えておられます。

 このお念仏のひびきをとおして、あなた自信の心の内に、その奥底に、み仏の方から聞こえてくるものに耳をかたむけ、それを味わってゆくことが大切なのです。み仏を念ずるとは、み仏に念ぜられていることであり、お念仏に、いのちの根元を聞いてゆかねばなりません。

 もし、この人生にありながらも、生死の迷いを離れる道を求めることがなければ、あたかも「宝の山に入りて何も得ることなく、手をむなしくして帰るようなもの(往生要集)」となります。

 拝まない者も拝まれている、拝まないときも拝まれている如来さまの大きな願いに、「今」気づかされた時、あなたも遠い宿縁によって、親鸞聖人が求められたものと同じ「弥陀の本願」に出遇っているのです。

 それは求めたから気づいたというよりも、み仏の方から求められていたという”目ざめ”です。信ずるに先だって信じられていたのだという発見です。

 「たたけよ、されば開かれん」といいますが、実は開いているとびらを閉じていると思い込んでたたいていたにすぎなかったのです。


お経のいわれ お経の心 お経のあらまし

法事でなぜお経をあげる

 ご先祖が迷うから?

 ご先祖が迷わないで、いいところに往ってもらわないと、子孫である自分たちの生活にもよくないことが起こるかもしれないと考えている人は多いようです。

 その証拠に、自分、または、家族の身の上によくないことが起こると、ご先祖が迷っているのではないかと、考える人が多くいます。それで「幸せは先祖供養から」というような言葉を、よく目にし、耳にします。

 「先祖供養」という時の「供養」は仏教本来の意味ではありません。先祖の霊を慰め鎮めることによって、自分たちの身にかかる災いを避けようというのが「先祖供養」という考え方なのです。本来仏教でいう「供養」は、相手を尊び敬うことが基本です。ご先祖をなにかあると子孫に災いをもたらすものという理解は、先祖を魔もの扱いしているので、ご先祖を尊び敬うどころかご先祖を魔ものと卑しめているのです。

 法事は、先祖を卑しめる「先祖供養」ではありません。本来の法事は、本当の意味でご先祖を尊び敬う(供養)仏事であり、それは言葉通り、法を弘める事業なのです。

 ご先祖を本当に尊び敬うことは、法事の縁に遇わせていただく一人ひとりが、ご先祖の気持ちを大切に聞いていくことです。ご先祖はわたしたちに何を願い、何を一番期待しているでしょうか。決して「私の霊を慰め鎮めてくれ」ということではないでしょう。

 ご先祖は子孫の幸せを願い、自らが聞いた真実の教えに遇うことを期待しておられるのではないでしょうか。真実の教えを受け継いでいくなかに、本当の幸せがあるからです。

 親鸞さまは、主著「教行証文類」の最後に中国の道綽(どうしゃく)さまの、

前(さき)に生まれんものは後を導き、後(のち)に生まれんひとは前を訪(とぶら)へ、連続無窮(むぐう)にして、願わくば休止(くし)せざらしめんと欲す。無辺の生死海(しょうじかい)を尽くさんがためのゆえなり (安楽集)

 のお言葉を引いて、私たちに何が大切で、どこに本当の幸せがあるかを教えてくださいました。

 すなわち、先人は、自らが生きた後ろ姿で子孫を導いてくださっているのです。ですから、子孫は先人のありし日の姿を偲び先人の足跡を訪ねることが大切です。それは表面だけでなく、み教えをよろこんで生きられた内面も訪ねさせていただくのです。その心の真ん中に、み教えがあったはずです。

 そこで、ご先祖を本当に尊び敬うには、ご先祖が一番大切にしておられた教えを聞かせていただく以外にないのです。ご先祖が大切にしておられた教えを説き明かしてくださったものがお経です。

 そのお経に遇ってみ教えをよろこばせていただく、そこに本当の供養があり、法が広まる大事業が遂行されていくのです。

 このように真のご法事が連続していくことによって、小さな「我」の執らわれの殻に閉じこもり、周りの「いのち」と自身を見失って迷いつづけてきた不幸な人生(無辺の生死海)が突き、真の幸せに向かう人生が始まるのです。

お経は呪文か、「あげる」ものか?

 法事を「先祖供養」と思っている人は、法事のお経は、先祖の霊を慰め鎮める呪文と受け取っておられるのでしょう。

 お釈迦様のご説法が、のちに多くのお経として残されましたが、お釈迦様には、「死者にこの説法(お経)を読誦(どくじゅ)して聞かせなさい」というお話はひとつもありません。いわんや、「この説法を読誦して死者の霊を慰め鎮めよ」という説法はありません。お釈迦様の説法は、すべて生きている人間になされたものです。ですから、お経は生きているものが聞かせていただくのです。

 聞けといわれても漢文で棒読みされたのでは、なにが説かれているのかさっぱりわからないと言われれば、言葉に窮します。ごもっともと言うしかありません。一時も早く、みんなにわかる言葉でお経を読誦するようにしなければなりません。まだ少数派ですが、日本語に訳してお経を読誦しておられる僧侶の人たちがおられます。しかし、大多数は漢文の棒読みです。

 そこで、少しでもお経に説かれている中身を味わってもらおうと、読経につづいて、ご法話をさせていただくのですが、やはり、わかるお経を読誦しなければ、「法事でなぜお経をあげる」という問いはなくならないでしょう。

 先人は、「経は教であり、鏡である」と教えてくださいました。お経は、私たちの「いのち」のあり場所と、「いのち」がどちらの方向に進めばいいかという、大切なことを明らかにしてくださる教えなのです。「いのち」の位置と方向を見失った状態が迷いです。

 私たちはお経によって明かされる教えによって、迷いの人生に終わりを告げ、さとりの世界に向かうことができるのです。また教えは、私の「いのち」のすべてを見せてくださる鏡であるといわれます。

 浄土真宗で読むお経は「仏説無量寿経」(大経)、「仏説観無量寿経」(観経)、「仏説阿弥陀経」(小経)の「浄土三部経」ですが、この「浄土三部経」をよろこばれた賛歌(偈文)も拝読します。浄土真宗の門信徒が一番多く耳にする「正信偈」は親鸞さまが「大経」のお心と、七高僧のよろこびを讃えられた賛歌です。

 「大経」は、わたしたちが迷いから、さとりに向かう道は阿弥陀仏の本願の名号(みょうごう)によるしかないことを説き明かしてくださった教典です。

 「観経」は、私たち人間のありのままの姿を明らかにしてくださった教典です。

 「小経」は、阿弥陀仏のすくいのおめあては、「観経」であかされるような私たちであり、私たちのすくいは「大経」の教えによるしかないことを、多くの諸仏が証明してくださる教典です。

 お経を読誦し、み教えに遇って、ご先祖を本当に尊び敬い(供養)、法を弘める大事業、すなわち法事が完遂されるのです。

 お経は「あげる」ものでなく、「いただく」ものなのです。


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