浄土真宗本願寺派 紫雲山 光明寺

お寺歳時記

浄土真宗の人間観(自己省察)

住職 藤田 恭爾

 お蔭様で、また新たな年を迎えることが出来ました。
 浄土教における自己省察の深さは、仏教の中でも他に類を見ない深さです。法然聖人は「十悪の法然房、愚癡の法然房」との自己省察を吐露されたり、宗祖は「極重悪人」「邪見憍慢悪衆生」「罪業深重の凡夫」と自らを示されます。
 その立場は「機の深信」と言われるもので、「松影の黒きは月の〝光〟かな」と法然聖人が示されるように、法に照らされればこそ見えてくる赤裸々な己が姿なのです。

 ここに、〝正機(しょうき:まさしき目当て)〟が浮かび上がってきます。人間が自分自身を〝正機〟と言うのではなく、「阿弥陀佛が逆悪の私を〝正機〟と喚んでいてくださっている」と、浄土教ではいただくのです。
 ここが最も大事なところで、人間の側から自らを正機と言えば、そこにあるのは傲慢・邪見の姿でしょう。自己肯定を自らにするのではなく〝如来の肯定〟を、唯々謙虚にいただいて、自己省察を続けるところに浄土教の特徴があると言えます。

 この〝悪人正機〟の意味は「宗教的な地平」であり、『歎異鈔』には「〝他力をたのみたてまつる〟悪人」と出てきます。〝他力をたのみたてまつる悪人〟とは、犯罪を犯した悪人でも利己主義の悪人でもありません。どこまでも自己執着から離れられない私が仏さまの〝正機〟であると知らされた姿を言います。法律や倫理、道徳の地平でないことを心したいものです。

宗祖の『悲歎述懐和讃』に、

(九四)
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
(九七)
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
(九八)
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき

と示されます。

 親鸞聖人は、真実である仏さまに照らされるなかで、どこまでいっても真実の心のない〝凡夫〟である私を見つめていかれます。虚仮不実のこの私には、仏さまのようにはできないとハッキリと表白され、だからこそ、仏さまがこの私を〝正機〟と喚んでくださっていると受け止め、唯々仏さまの願いの中で生きていくとされるのです。
 凡夫が救われる「阿弥陀仏のみ教え」は、親鸞聖人がおっしゃる「大乗の至極」、「感謝・慚愧の仏教」 です。
 私たち一人ひとりが仏さまの〝正機〟であるということ、そして摂取不捨の仏さまの願いの中に生きるとは具体的にどういうことなのかを、今年もともにお聴聞させていただきましょう。

(お正月号)

信心と信頼

住職 藤田 恭爾

 私たちの言葉遣いですが、「あの人を信頼する」とは言っても、「あの人を信心する」とは言いません。
 「あの人は観音様を信心している」とは言っても「あの人は観音様を信頼している」とは余り言わないでしょう。
 と、言うことは対人間について「信頼する」「信頼しない」を使って、宗教的な対象について「信心する、信心しない」と言うのでしょうか。
 しかし、「浄土真宗」では、「信心する」という行為は当てはまらないのです。何故なら自分で信心を作らないからです。
 昔から真宗は「する信心ではなく、頂く信心だ」と、言われています。どういうことなのか考えてみましょう。
 「祈願の宗教」は「する信心=信心する」かたちを取ります。そして、信心しますから何々を叶えてください!と「お願い=祈願」になります。この頃ですと「合格祈願、病気平癒、家内安全」と、枚挙に暇がありません。「願い事=欲」に限りが有りません。皮肉にも【思う様にならない】現実が続きます。
 此の【思う様にならない】現実をシッカリと見据えて、立ち上がり、また、歩み出す時に「如来様に遇う」のが「真宗」です。
 「仏願力に遇いぬれば、虚しく過ぐる人ぞなき、功徳の宝海満ち満ちて、煩悩の濁水へだて無し」と、親鸞聖人はご和讃に示して下さっています。人生は、あっちに行ってはぶつかり、こっちに行っては躓き、或いは転んで擦りむいたり、打撲、捻挫、骨折と「辛いこと」の連続です。しかし、此の私を放っておかないのが「阿弥陀如来さま」なのです。「さぁ、一緒に行きましょう」と、如来様の声が聞こえたところが「仏願力に遇いぬれば」なのです。昔から、一緒に歩んでいて下さっていたのですが「わたしが、気が付かなかった」のです。
 自分中心だったからです。周りを見ているようで、見ていなかったのです。見えているようで、見えていなかったのです。
 欲の目では「損か、得か」しか見えません。
 母親が子どもを育てる時には、「無条件」です。損得では無く、「子どもの立場になって」一緒に成長していくのです。泣き声から判断していきます。父親にはなかなか分からない「泣き声の変化」です。
 如来様の目は「嘘か、真(まこと)か」の眼差しです。「真実」とは虚偽を真実に変える用きです。そこに仏さまが救済し続け、用き続ける「真実」があるのです。
 私たちが「不実」を知らないほどに深く迷っているからでもあります。「迷っていることに気付かないほどの深い迷いなのです」
 ここで「信頼」と言う言葉で「真宗の信心」を味わってみたいのです。「信じ、頼りにする」と読めます。
 真宗の信心は「如来さまがわたしに、まかせなさい=南無阿弥陀仏」の呼びかけに「はい、おまかせします=頼りにしてます」の私を「委ねたすがた=エントラスティング」です。まさに信頼=トラストに通じます。本当に信頼に足るものは「阿弥陀如来のまことのお慈悲のみ」です。
 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもってそらごと、たわごと、まことあること無きに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と、聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」と同じ事が示されています。 一生涯「まこと」を追究し続けた人が「親鸞聖人」だったのです。

(春彼岸号)

浄土真宗のお盆とは

住職 藤田 恭爾

 お盆になりました。今年も暑いことです。しかし、暑くないとお盆らしくないとも言えましょう。
 古くからの風習で、十三日に「お墓に参って、お迎え」をして、家まで「ご案内」をする。そして、十六日には「お墓に参って、お送り」する。或いは、「迎え火、送り火を焚いて」お墓参りは省くことも。
 このように古くからお墓とお盆は深い関係があり、今でも「先祖は墓の下に居る」とする見方は続いています。
 寳光寺ではご門徒の方に問われたときに、「お墓は、遺骨を埋葬するところで、人間として居た『標し(しるし)』である。亡き方は今、お浄土から私たちを見護る仏さまなのです」と、説明します。しかし、「お骨=その人」の先入観はなかなか拭えません。
 「本人と属性」は一緒では無いため、「その人のお骨」は「その人そのもの」とは言えません。しかし、頼る術が無ければ、「お骨」しか手だては有りません。だから、「お骨、お骨、お墓参り」と連鎖していくのでしょう。
 宗祖親鸞聖人は「某、親鸞閉眼せば、賀茂河にいれて、魚にあたふべしと云々」(『改邪鈔』)と示されます。これは、「生きている間、魚を頂いていのちを繋いでいたのだから、せめて死後は此の身体を魚に与えて欲しい。私自身は弥陀の浄土に往生させていただいて、そこから〈衆生済度〉の用き(はたらき)をさせていただくのだから」と云うことです。

「浄土真宗は墓参りよりも、寺参り」と云われてきました。蓮如上人の御文章に、「されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏もうすべきものなり」(「白骨の御文章」)と示されるように、〈阿弥陀仏のお救い〉をお聞かせいただいて、自分の人生をシッカリと見極め、お慈悲に支えられて、お浄土への歩みを共に進めてまいりましょうというご指南です。
 これが「浄土真宗」です。「父・母の深きご恩を思うべし、弥陀頼む身に、育てたまえば」とも謳われています。これは、自分自身がお寺に足を運び、「お正信偈」を唱和して、「御法話」を聴聞するうちに「今は亡き祖父祖母、父母、叔父叔母、夫、妻、兄弟姉妹が、お浄土から教えてくれている。護ってくれて、導いてくれている」という実感です。
 そしてまた、「倶にお浄土で会える(倶会一処)」のは〈阿弥陀様のお約束〉だから、間違いありません。そこをシッカリと聞かせていただくのが、「浄土真宗の伝統」です。お盆に際して「真宗の伝統」に思いを馳せ、「感謝のお念仏」を味わいましょう。

 現代は多かれ少なかれ「情報」が溢れ、それを追いかけているのが〈現代人〉なのかもしれません。若い人は楽しいかも知れませんが、年寄はついていけません。「取り残されたような寂しさを感じます」と聞いたこともありますが、私は、「直線を走っていると思うから取り残されているように思うのでは?私はトラックを集団で走っていると思うことにしています。年寄は若い人に抜かれて〈周回遅れ〉です。しかし、みんな〈現代〉というトラックを回っています。グルグルぐるぐると。だから、走ったり、歩いたり、止まって休んだり色々あって良いんです」とお話ししたことがあります。この、「止まって休んだり」が、「お寺にお参り」に当たるのかも知れません。

(夏・お盆号)