コラム 「プロの眼」 教区通信ふくおか連載
住職の弟で、西日本新聞記者である傍示文昭が世相を斬る!
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八月末、福岡市で開かれた市民シンポジウム「犯罪被害者の支援に向けて」(日本弁護士連合会など主催)にパネリストの一人として出席した。パネラーは私と弁護士、警察官、そして俳優の杉良太郎さん。失礼ながら、はじめに「杉良太郎」と聞いた時は驚いた。 刑務所慰問を続けていることは知っていたが、所詮、市民シンポを盛り上げるために弁護士会が連れてきた、いわば「人寄せパンダ」ぐらいにしか思っていなかった。 ところが、違った。違うどころか完全にシンポの主役だった。壇上に座っているだけで「華」があるのはむしろ当たり前だとしても、多くの加害者、被害者に接してきた経験に基づく発言は説得力があり、語りのうまさも手伝って聴衆を一気に引き込んだ。 「刑務所慰問を続けて三十年になるが、いつも刺すような視線を感じる。心から反省して服役している人は驚くほど少ない」「加害者をいくら厳しく罰しても被害者が満たされることはない。応報感情を満たそうとするやり方だけでは被害者は救われない」−−。 杉さんのもう一つの肩書きは、法務省名誉矯正監。長年に渡る慰問活動などの実績が評価され、民間人としてただ一人任命されているという。一方で、有名人であるために、こうした慈善活動に対して常に足を引っ張ろうとする勢力がついて回ることも知った。 「この業界ではなぜか、無料奉仕をすると偽善だ、売名だと陰口をたたかれる。だから、悲しいことに出来るだけこっそりやらなければならない」「被害者のような弱者に対して、誰もが当たり前にボランティア活動に取り組むような福祉国家であってほしい」 短い時間だったが、控え室でも話が出来た。飾り気のない人だった。「流し目の・・・」とは違う「人間・杉良太郎」に触れることができた気がした。 こういう出会いがあるから新聞記者はやめられない。 |
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小椋 佳、ふきのとう、イルカ・・・。乱雑に積み上げられたCD(コンパクトディスク)を写した一枚の写真が手元にある。新聞紙上では使っていない写真だが、ずっと気になり、思い出したように机の引き出しから取り出しては、さまざまな想像をめぐらせている。 この写真は、北九州市小倉北区で三月七日に発覚した十七歳少女監禁致傷事件で、保護された男児四人が生活していたアパートの室内風景。許可を得て入室した後輩記者が撮影した。CDは逮捕、起訴された緒方純子被告(40)が聴いていたという。 久留米市出身の緒方被告は幼稚園の先生だったころ、三潴町の高校で一時同級生だった松永太被告(41)と再会して親しくなり、やがて同居。柳川市で知人をだまして多額の現金をだまし取った詐欺容疑で指名手配され、行方をくらましたのは、彼女が三十歳の時だった。そして北九州市で十年に及んだ偽名生活。逮捕以来、多くの人と時間と新聞紙面を割き、空白の十年を追い続けている。 だが、事件の全体像が浮かび上がるどころか、逆に新たな疑惑が次々に浮上した。十七歳少女の父親殺害疑惑、四十一歳への監禁致傷、結婚詐欺、強盗容疑、緒方被告の親族殺害容疑・・・・・。逮捕以来、雑談に応じる以外は一貫して黙秘も続いており、どこまで事件の裾野が広がるのかさえ見当が付かない不気味さが事件を包み込んでいる。 だからこそ、静かにCDに耳を傾ける姿と、一連の残虐な事件に手を染めた疑いが強い緒方被告とのギャップがどうしても埋まらない。緒方被告の高校、短大時代にヒット曲を生んだ小椋 佳、ふきのとう、イルカの叙情的な歌は、すさんだ生活の中で、高校、短大時代の淡い思い出に浸る安息の時間だったのだろうか。乾き切った心を癒す一服の清涼剤だったのだろうか。 さまざまな想像をめぐらせながら、改めて人間の摩訶不思議さに思いをはせている。 |
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アフガニスタン復興が語られ始めた今、四百万人に上る難民がクローズアップされている。戦乱、干ばつ、貧困によって国際社会から忘れ去られてきた人たちだ。 西日本新聞は昨年、シリーズ「21世紀ともに生きる アジアの人権と共生を考える」を展開したのに続き、今年は「アジアと日本・わたしたちに何ができるか」をテーマに新たなキャンペーンを始めた。その第一弾が一月に十回にわたって紙面に掲載された「難民−アフガン 命を守る」。社会部の記者たちが現地に入り、取材した難民ルポは現地の窮状を克明に伝えた。新聞記者であっても取材・報道に関わっていないテーマは、一読者にすぎない。教えられることばかりだった。 「あのアフガンの少女の力になりたいと思うんです」。インタビューの質問をさえぎるように、突然こう切り出したのは歌手の岩崎宏美さんだった。福岡市・天神のライブハウスで取材中、彼女は「途中でごめんなさいね」と言いながら、経緯を語り始めた。 ホテルの一室で偶然、西日本新聞を手にした。一枚の写真に目が止まった。チャドルで顔を隠した少女の写真。引き込まれるようにアフガンの連載記事を読んだ。現地特有の皮膚病に侵され、鼻の半分が崩れ、ほおが赤くはれ上がり、それでも貧困ゆえに八年も放置され・・・。読みながら目頭が熱くなり、何か力になれないがと思ったという。「二万円で手術できるのであれば寄付したい。手続きの方法を教えてくださいね」。会ったら聞いてみよう、寄付しようとおもっていたという。結局、こちらの用意した質問は半分も聞けなかったが、なぜかうれしくて仕方なかった。 歌手としての生活がある。現地で難民の命を守る「ペシャワール会」(福岡市)の活動を手伝うことはできないけれど、側面から支援することはできる。そう考えて行動を起こした彼女の心を動かしたのは、紛れもなく一本の記事だった。新聞もまだまだ捨てたもんじゃない。手前みそな話だが、改めてそう思っている。 |
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特別寄稿 「平和教育を考える」 |
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八月六日、長崎市・稲佐山で開かれる平和コンサートがある。タイトルは「夏・長崎から」。その名の通り、長崎市出身の歌手さだまさしさんが「広島原爆の日に長崎から広島に向かって歌う。それだけで伝わる人には伝わる」と宣言して始めたコンサート。今年、節目の十五回目を迎えた。 毎年、さださんのほか、加山雄三さんら多彩なゲストが出演し、三万人前後が詰めかける。平和コンサートだが、ステージで平和への祈りを捧げるわけではなく、核廃絶を声高に叫ぶこともない。「敢えてそれを口にしない」とさださんは強調する。無論、反核団体などからの批判はある。「若者に媚びるやり方では何も伝えられない」と。 だが、何度か参加して感じることは、そんな批判とは裏腹に、平和や反戦、反核の思いが深く静かに刻み込まれる「平和集会」だということだ。昨夏、さださんは打ち上げの席で、「夏・長崎から」に込めた思いを一つのエピソードに託してこう紹介した。 ぎっしりと詰まった屋外ステージの観客席。小さな子どもの手を引いて席を探す若い母親がいた。「どうしてこんなに人がいるの」と子どもが聞いた。母親は「平和コンサートだからよ」と答えた。すると子どもは「平和ってなあに」と聞き返した。母親はこう答えた。「こんなにたくさんの人が集まって音楽を聞けるってことが平和なの」−−。 戦後五十六年、戦争体験の風化が叫ばれて久しい。戦争や原爆の体験を後世に伝える”語り部”も少なくなった。戦争を知らない世代ばかりになった時、「平和集会や平和授業はどうなるのだろうか」と危惧する声すらある。だが、戦争を題材にしなければ”平和”は語れないのだろうか。「夏・長崎から」の在り方をみながら、平和について考える時間を作ることが平和授業であり、平和集会ではないかと思っている。 平和なはずの日本で六月、小学校に乱入した男が幼い児童八人を刺殺するという何とも痛ましい事件が起きた。いとも簡単に人を殺す少年たちの存在もクローズアップされている。事件の動機や背景はそれぞれ異なるが、こうした男たちに共通しているのは、人の死に対する痛みの欠如であり、愛する者を失う苦悩への心配りの欠如である。 今、大切で必要なことは”生と死”や”命”について語り、考えることであり、幼心にその尊さを擦り込んでやることだ。ペットの死に際し、お墓を作ってやることも、家族そろって阿弥陀如来に手を合わせることも平和授業となる。そのことが、ひいては平和や反戦の思いを育てることにつながると思う。 時代は変わる。やがて”語り部”はみなお浄土に還り、戦争体験はさらに風化する。だが、平和授業の役割はより重要性を増している。 |
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あの日、午後十時のニュースが始まると、燃える世界貿易センタービルの映像が映し出された。「旅客機が激突した」と伝える。にわかに現実とは信じられず、ただ呆然とテレビを見ていると、二機目の旅客機がビルに突っ込み、火柱が上がった。ようやく事態がのみこめたころ、ニュースから流れ始めたのは、イスラム過激派の存在であり、サウジアラビア出身の指導者ウサマ・ビン・ラディンの名前だった。 テロの首謀者とされるビンラディンの行動の根本にあるのは「ジハード(聖戦)」の思想だといわれる。キリスト教徒やユダヤ教徒の抑圧を受け、危機に瀕するイスラム社会を救うため、「聖戦」を行うのはムスリム(イスラム教徒)の義務だというものだ。 最大の敵は、聖地エルサレムを含むパレスチナを占領するイスラエルであり、そのイスラエルを擁護し、イスラム教の二大聖地メッカ、メディナを抱えるサウジアラビアに軍隊駐留を続ける米国ということになる。 無論、イスラム教は殺人を容認していない。自殺を罪ととらえ「自殺者は地獄に行く」とも説く。にもかかわらず、イスラム過激派は「聖戦の中での自爆テロ」を「殉教行為」として正当化し、殉教者とその家族は死後、天国行きが約束されていると洗脳しているという。 旅客機を乗っ取り、自爆したテロリストたちは、天国行きを信じて殉教したことになる。紛れもなくそこに宗教がある。 だが、無抵抗の市民を巻き添えにする無差別テロがアラーの神の教えであるはずがなく、正当化される正義などあるはずもない。 ビンラディンはイスラム社会を取り巻く貧困と絶望を背景に、信仰心を対米テロに利用しているに過ぎない。そこにあるのは宗教ではなく、宗教を利用した政治だ。 パレスチナ紛争、北アイルランド内戦、バルカン半島問題・・・。米国同時中枢テロに限らず、各地の紛争はどれを取っても宗教絡みであることは間違いない。同時に、宗教を利用した権力者たちの縄張り争いであることも間違いない。 |